栗ご飯

昨日の朝、何となく、栗ご飯が食べたくなって、栗の皮をむいていました。
20個の栗の皮を「くりくり坊主」を使って、ほぼ皮を剥ぎ終わりました。
後は、渋皮を剥ぐだけだったんですが。

その時、突然電話が鳴った。
近所のおばあちゃんからだった。85歳で一人暮らし。知合いなんです。
「〇〇さん、栗売ってくれませんか」と。(私は栗農家でもあり、ネット販売をしている)
私は、「もう栗終わりましたよ」と答えた。(9月に全部売れたので、今は在庫ゼロ)
「栗をどうするのと」聞いたら、「栗ご飯が食べたい」と言われた。

え!と思った。今の自分と同じだったんで。
最初、自家用として別に保管している生栗を20個程度あげようと思ったのですが、デイサービスに通われているおばあちゃんには、栗剥きはとても危険だと思ったんです。
結局、今、剥いている最中の栗20個をそのまま、あげることにした。
澁皮を全部剥いで綺麗にして、そのまま、おばあちゃんのところに持って行ってあげました。
大変喜んでいただいた。タダです。

私が朝から剥いていた栗は、私のお腹に入る予定だったが、おばあちゃんのお腹に入ることとなった。
栗を剥いている最中にタイミングよく電話が鳴ったのは、最初から剥いた栗をおばあちゃんにあげるようになっていたんじゃないかという気がしてならなかった。
お腹に入るのは同じだ。いいとしよう。
ちょっと不思議に思えたが、こういうことってたまにある。
今度は、自分で食べるために、今日これから剥こうとしているのが上の写真です。

個と全体

個があり、全体がある。
人や動物や植物があり、地球があり、そして、星々がある。
これら一つ一つを集めていくと宇宙全体になるのですが、その全体を見たものは誰もいない。
全体という言葉は、抽象的で曖昧です。はっきり知らないのに使っています。
曖昧なんですが、何となく分かったような気がして、それ以上突っ込もうとはしません。

人の目では全体を見ることはできません。個々しか見えない。
自分が個だからです。個は全体を知らない。
個は部分にならないといけない。部分となって初めて全体とつながることができる。
こうして曖昧だった全体が少しづつ見えてくる。

一つ二つと数えられるものは、一つ二つと数えられないものからなっている。
数えられるものは滅びます。しかし、数えられないものは滅ばない。
数えられるものを見て、数えられないものを学ぶ。
ただ、数えられるものと数えられないものとの間には、大きな「飛躍」がある。
数えられるものをいくら分解しても、数えられないものは出てこないからです。
深淵には闇がある。
この世の論理が通用しない。難信難解。

相対的

じっとしている者から見ると、動いているものはエネルギーを使っていて大変だと思うに違いない。
逆に、いつも動いている者から見ると、じっとしていることはエネルギーを使っていて大変だと思うだろう。
止まっているのが常態なのか、動いているのが常態なのか。
この議論は、実のところ、あまり意味がありません。
と言うのは、どちらでも捉えられるからです。そう見るとそうなる。
実際のところ、動いて見えるが本当に動いているのか、止まって見えるが本当に止まっているのかよく分からないんです。
人の感覚というのは、当てにならないところがあります。
なので、この議論にエネルギーを使う方が無駄ということになります。

上とか下もそう。頭を基準にして上とか下とか言います。相対的。
地球の反対側にいる人の上は逆になります。
つまり、絶体的な上、下、真ん中というのはないんです。
広い宇宙を見ると分かるが、どこが真ん中か分からない。端がないと真ん中は決められない。つまり、真ん中という言葉が不要になる。
地球では上から下に水が流れるが、宇宙空間ではそうならないので、上とか下とかいう概念はあまり役に立たない。
地球という場と宇宙という場では、同じように語れない。
どの場にいるかで、日常用語も変わってこざるを得ない。同じ基準が当てはまらない。
観測者がどの場にいるかで、基準自体を替えないといけないことが起きます。もし変えずに測ると、ズレて頭がおかしくなってくる。
私達が使っている言葉は生活する上では役に立ちますが、不変の真理を知る上では、邪魔になることが多い。
相対を超えて、より絶体を求めようとしても、相対から脱すること自体が難しい。
人が定めた基準は、そもそも絶対基準になり得ない。

あるものを具体化しようとして、具体化した途端に、あるものの本来の姿が失われてしまう

自分を捨てる

友達同士なら、そう問題は起きない

「お前おかしいぞ」
「そうかな ゴメン」
で終わることが殆ど。
たとえ、そこで終わらない場合でも、大きな喧嘩まで発展することは稀。
「しょうがない奴やなー」で許してしまうこともある。
これは、友達同士なら、互いに相手を信頼し、気心が知れているためです。

だから、まず何よりも先に、理屈以前に、友達になるべきです。
そのためには、自分の内に壁を設けないことが大事です。
自分の外にも縄張りのような壁がたくさんありますが、それらは、自分の内にある壁を反映したものです。

少々のことで腹を立てていると、友達になれないばかりか、敵を作ることになってしまうからです。壁を設けると相手が入ってこれない。
しかし、言うは易く、行うは難し。人の本性は簡単に変えられません。
愛と不屈の忍耐がどうしても必要です。
だから、人には言うが、自分ではしようとしません。偽善者は、自分でできないことを、人にはするように要求するものです。
敵を作ってはならない。もし喧嘩をしたら、早めに仲直りしましょう。

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尋ねるのは何故?

人には「なぜ?」と尋ねる知的探求心があります。
そして、不思議な世界があります。
もし、探求心がなければ、不思議な世界もない。
もし、探求心が全て満たされたなら、不思議さも消え去るでしょう。

やっと解明できたと思っても、更に分からないことが出てくるものです。

本質を知らないまま、枝葉の部分だけで分かったと錯覚していることって本当に多いんです。自分では、錯覚しているとは思わないから厄介なんです。

枝葉をいくら細かく調べても、結局、枝葉しか出てこない。
この世の物差しで測る限り、「なぜ?」は永久に続きます。

物差し自体が枝葉を基準にしている為、測っても、本質はこぼれ落ちてしまう。

霊から生まれたものは霊


霊から生まれたものは霊であり、どこから来てどこに行くのか知らない。
生まれた霊(わたし)は何も知らない。霊であることすら知らない。
「知る」にはどうしても言葉がいる。「わたし」はまだ言葉を持っていなかった。
言葉を持って、初めて「知る」ということが起きる。
しかし、「知る」に至る道には、二つの木があった。善悪の知識の木と命の木。
同じ「知る」でも、真理・命に大きな差、天と地ほどの違いがあった。

神は存在であり、かつ言葉です。神の霊は、それ自身で生きておられます。
ところが、生まれた霊はそうではなかった。言葉・命を持っていなかった。
つまり、生きていなかった。完全なる死の中にあった。
霊であっても霊であることを知らず、闇しかなかった。
存在していても、存在していることを知らないなら、生きているとは言えない。
存在していても、何も支配していないなら、生きているとは言えない。
たとえ、存在していても、存在を証するものがいないと、存在しないことになります。
「わたし」は最初から霊として「ある」のですが、そのことを知らなかった。
「わたしはある」ということを知らなかった。
神は、「わたし」にそのことを知らしめようと導かれる。霊と真理において。
天地創造以前から、「わたしはある」ということを。

証するために、わたしは天地(言葉の世界)に連れてこられた。
「わたし」がわたし自身を知ることができるようにと、「わたし」に命を与えられた。
霊から出たわたしは、霊のところに戻らないといけない。「わたしはある」を知って。
元々そこにいるのだから、真理を携えて戻らないといけない。
光を持たないと、出たままとなって戻れない。知らないままで終わる。

霊からゴムが伸びて飛び出ます。そしてゴムは縮んで霊のところに戻る。
もし、ゴムが壊れたら、切れてしまって戻れなくなる。
戻る時は、神々しくなって戻ることになる。
存在は存在から出てきた言葉によって証される。
言葉は神と共にあるからです。
「わたしはある」ということを受け入れるなら、わたしは父の内にいます。
最初からあった真理を、最後に知る。最初は何も知らない。
何も知らなかったものが、最後に知るものとなる。その後、天地は滅ぶ。
天地は最初があり、最後がある。
真理に至るには、時という「たとえ」を通らないといけない。

聖書と世界


聖書に描かれている世界には大きく分けて三つあります。

  1. 人が造られる前の世界
  2. 人が造られて、人が天上にいる時の世界
  3. 人が地上に堕ちてからの世界
     

今の私達は、3.しか知らない。1.と2.を知らない。
1.2.3.と上から下に降りていく。
もちろん、上とか下は、たとえであって、物理的な上下を示すものではない。

イエス一人だけが、上に上げられた人として書かれています。
イエス一人を知って、全て推し量るべしということです。
それに続けということです。

1.と2.の世界は通って来たものでないと分からない。
通ってきても、通って来たことを知らなければ、通って来たと言えない。
通って来たことを知って、初めて通って来たものとなる。
遣わされても遣わされたこと知らなければ、遣わされたものとならない。
知らなかったことを知らなければ知ったことにならない。
ここに難しさがある。既に知っていると、知っていることが邪魔をするからです。
何も知らなかった頃に戻らないといけない。しかし、それが難しい。
まず、すべてを捨てないといけない。捨てないと、信じることすら難しい。

天地創造以前、わたしが生まれた時、わたしはどこから来てどこに行くのか知らなかった。
闇があった。それを救うために光が入れられた。

自分が本当に何も知らないと気づいた時、敬虔になります。大いなる方、知っておられる方に導かれます。
知っていると思った瞬間、導かれなくなる。自分を神にしているから。

聖書の言葉とこの世の言葉

とんでもなく違っていることを「天と地ほど違う」と言うことがあります。
聖書を読むと、一つ一つの言葉が、私達の知っている意味とあまりにも違っていることに気付かされます。
私達が語る言葉と同じ言葉、名前を用いて書かれているのですが、その意味合いが随分異なるのです。
似ているが随分異なっている。
この「似ている」というニュアンスが聖書で言うところの「たとえ」を想起させます。

例えば、「知る」という一つの言葉、名を例に取り上げてみましょう。
私達は「知っている」とか、「理解している」とか、日常的に使っています。
ところが、聖書では、知っている方というのは神しかおられません。
つまり、私たちは何も知らないし、何も理解していないということになります。
「知っている」と語る資格など、私達にはないということになる。
知らないが故に、私達を真理に導こうとして、神は「たとえ」を用いて語られる。
人は元々何も知らない。これが前提にあります。もし、これに気付けないと先には進めない。
「無知を知る」という言葉がありますが、まさに、そこに戻らないとスタートに立てない。

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年齢と意欲

もう私も70代です。

ブログでは偉そうなことを書いていますが、聖人君子でもなく、結構いい加減なおじさんです。書く時だけは真面目になりますが、これは致し方ない。

当パソコン教室に来られる方は、年配の方が殆ど。

中には90歳近い方もおられる。普段は二階の教室で教えていますが、その方だけは足や体が悪いので、一階の居間で教えています。
歩くのも大変なので、体を支えながら靴を脱いだり、抱えながら居間に上がってもらいます。
Wordを学ぶと言っても、簡単な一つぐらいの機能だけなんですが、たったそれだけでものすごく感激されておられる。そして、感謝される。
どうしても、手紙を書きたいという一心で習いに来られているんですね。
ちょっとしたことを学んでも、その人にとっては、ものすごく大きな収穫なんです。
教える私としても喜んでいただいたら、それで十分。評価とかは一切不要。これが最高かな。
その方は、昔は府庁の偉いさんだったそうな。今となっては、関係ないですね。本人も私も。

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聖書と人の言葉


言葉で世界を捉えます。

どうして、人は言葉を語るのか、その答えは聖書にあった。

天地創造以前、「わたし」が生まれた時、闇しかなかった。だから、闇に属した。
これは、避けられない。
「わたし」は、まだ、言葉(命)を持っていなかった。だから、何も知らなかった。
水の面を神の霊が動いていたが、知る余地もなかった。闇しかなかった。
すべては、ここから始まった。

後は、光によって、付け加えて与えられていった。天地も人も。これが天地創造です。
すべて、「わたし」のために与えられていった。
「わたし」がどこから来てどこに行くのかを知ることができるように、そうされたのです。
言葉を語るには、世界がいる。世界がなければ言葉が語れない。だから、世界が造られた。
人が言葉を語るための準備がなされた。「わたし」のために次々と与えられていった。
「わたし」は、このことを知らなかった。

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聖書と言葉

イエスは言われた。
「光はいましばらくあなた方の間にある。」
「いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。」
           <ヨハネの福音書抜粋>

見えるイエスとして示されながら、私達に見えていない「命」として語られている。
今迄長い間見ることも聞くこともできなかった命の声を聞いている。
私達を内から照らしている「光」として語られている。
光は命です。肉の目からは見えない。見えない者のために、見えるものとして遣わされた。
光はこの世に、しばらくの間、留まりますが、しばらくすると、去っていく。
神から生まれたものは、神のもとに返るが、塵から生まれたものは、塵に返る。
神は、死んだ者(塵にすぎないもの)にも、しばらくの間だけ命を与えられる。
現れたイエスを見て、隠された真理を見る。
客観として見るのではなく、自分自身を見る。

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聖書と「わたしはある」


ポット灯りがついて生まれる。ポット灯りが消えて死ぬ。
ロウソクの灯で見ていると、そうなる。ロウソクの灯は束の間の明かり。
ところが、よく見ると、その消える灯に消えないものがあった。
それが見えないのは、わたしの内に光がないためだった。

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