心は燃えても、肉体は弱い

        <イエスの言葉>

人は基本、場当たり。
場当たりがいけないとよく言われますが、だいたいにおいて場当たりなんです。

脅威や事故や災難を見てみると、よく分かります。
脅威を感じたり、突然の事故が起きたりすると、急遽、色んな対策が練られる。
起きないと、対策は練られない。
その後、脅威や事故が消え去ると、自然に忘れ去られる。対策の効果や関心が薄れていく。
他のところにお金を使おうということになったりする。
戦争の脅威も然り、コロナも然り、地震や津波も然り。場当たりで軍拡、憲法改正、核保有が議論され、場当たりで脅威が増えて一発触発の事態に向かう。いつもの流れ。
危機が去れば、関心が薄れていく。これも、いつもの流れ。
昔から何度も同じ繰り返し。抜け出せないでいる。

「絶対に忘れてはいけない」と言われても忘れるんです。眠たくなると眠るように。
心は燃えても肉体は弱い。長続きしない。だから繰り返す。

人は場当たり。
平穏な時には何も言わなかった人が、身の危険が迫ると途端に豹変して大声を出すようになります。近づくと、噛みつかれます。
犬や猫も一緒。縄張りを意識して、適当な距離を保たないと恐いんです。
これも、何度も繰り返されている。
人は動物とあまり変わらない。知恵は、動物の本能を満たすための狡猾な道具。
その時は、知恵で美しく装って、正当化、善人ぶるが、そのうち、化けの皮が剥がれる。

人は場当たり。
失敗しないようにと、過去の歴史を紐解くが、頭に全部入りきりません。
それに、知識は日常の生活と少し離れていて、実態を変えるほどの力がありません。
目の前は、すごく変わっているように見えますが、実態は何も変わっていません。
要するに、目の前に映る現象に対し、その時々に、ただ反応しているだけ。
そうは言うものの、危機管理は大事だと頭の中に叩き込もうとして、その時は熱くなります。
でも、平穏な時が続くと、危機管理意識が薄れ、管理する部署ものんびりしてきて、地味な仕事となる。有能な人はそこに配置されなくなるし、どんどん忘れ去られる。
大阪市の保健所のように。

人は場当たり。
学習してもすぐ忘れるし、完璧な人はまずいない。
人が優れているという前提で、こういう時はこうすべきだと熱く語られますが、その時だけ。
その内、熱は冷めていく。肉体やそれに追随する心は本当に弱いんです。
頭は、このことをよく知りません。目先に心を奪われる。だから、間違う。
世代も変わるし、考え方もころっと変わってきます。ファッションと同じ。新しいものに変わると、古いものは、古臭いと捨てられる。古いものの良さが忘れ去られる。
学習して知識は蓄積されるが、使う人が愚かだから、ずる賢くなるだけ。
すべて場当たり。一貫しているのは、「心は燃えても、肉体は弱い」「愚か」ということ。

※これらの原因は下記による。ただ、この世の人が理解することは難しい。

心は燃えても、肉体は弱い。(イエスの言葉。マタイの福音書26-41)

肉体は弱いし、もろいし、土に返る。心は頑張るものの、肉の弱さに勝てない。
だから、場当たりになる。同じことが繰り返され、戦争も繰り返される。

人の力で戦争をなくすことは難しい。
誤解を受ける言い方ですが、この世の本質は「人殺し」だからです。
神から遣わされたものを殺そうとします、つまり、真理を殺そうとします。
人の子を上げない限り、自分も上げられません。

人は、誰にも左右されず、自分の意志で自由に考えて行動していると思っていますが、よくよく見ると、大きな力によって流されています。
しかし、自分が流されているなどとは、決して思わないし、思えない。
この世は、時間と空間を破れず、弱い肉の中で堂々巡りをしている。
天と地、父と子、光と闇、両方を知って真理に至る。肉のみでは至れない。

自分の愚かさや無知を十分に知るべき。弱くて脆い肉に心を奪われてはいけない。

場当たりにも二通りあります。
肉に従っている場合と霊に従っている場合とが。
霊に従っている場合、その時その時、すべきことが教えられます。