敵を愛しなさい

       イエスの言葉


様々な国の、様々な人に対しての非難を耳にします。

しかし、

もし、あなたが中国に生まれたら、あなたが嫌っているあの人のようになっていたかもしれない。
もし、あなたがロシアで生まれたら、あなたが嫌っているあの人のようになっていたかもしれない。

と言うのも、人は生まれ育ったところの環境や教育でかなり影響を受けるからです。
さすがに、皆がそうなるとまでは言いませんが。

こんなことを言うと、殆どの人が異を唱えるでしょう。
「冗談じゃない!たとえ、どの国に生まれても、私はあんな人間にはならない」と。
もちろん、これは、タラレバの話なので、検証できません。
私が言いたいのは、人間というのは人が思う以上に弱くて影響を受けやすいということ。

世界には、様々な考え方や風習があります。違いがあります。時代によっても。
身に着けた考え方は、ファッションのようなもの。場所や時に合わせてコロコロ変わります。
なので、正義に統一したものはない。自分の正義は、他人から見たら悪かもしれない。
自分が正しく、他人が間違っていると思うこと自体がそもそも妄想なのです。

「違い」を「差別」に置き換えて、人々を分断するのではなく、「普遍的なもの」「コロコロ変わらないもの」でもって、一つになるべきです。
散らす人は多いが、集める人が少ない。

様々な「違い」以前に、人類には共通の普遍的価値がある。
誠実さとか正直とか愛です。これは「違い」を超えています。
この普遍的価値でもって、互いに接するべき。考え方の違いなどは後にして。
「目には目を」は、互いに恨みばかりが募り、互いに傷つくだけです。

私がこう言うと、決まって、
「そんな理想論で解決できるわけがない。甘すぎる。現実に脅威があるのだから、自分を守るためには軍事力を増強するしかない」
「攻められても何もしないで、自国が滅んでもいいのか。非国民!」

と非難される。
ここで、「敵を愛しなさい」なんて言おうものなら、「気が狂ったのか」と思われます。
私は石を投げられて追い立てられる。こうして、私はこの世で一人ぽっちになる。

国際関係においても、仲がいいもの同士ではなく、敵と感じている先とうまくやることが外交ではないかと思います。ただ、知的エリートには荷が重い。

この世は弱肉強食。目には目を、力には力で動いています。自分で力を持つか、力あるところとくっつくしかない。この当たり前の論理?に逆らうと、世間から非難を浴びてしまう。
人は一皮むくと動物と同じ。いや、動物より陰湿かもしれない。
戦争での残虐行為を非難しているが、殺人や残虐性は人の本質部分にあります。平常時はオブラートに包まれて気づきにくいが、危機時には公に顕されるのでよく分かります。

イエスの言葉:マタイ福音書5-43

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなたがたの天の父の子となるためである。
父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。
異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

愛はすべてに勝る。力や知識に勝る。愛に不可能はない。だが、誰も信じない。
できないものはできないと最初から諦めている。だから、できない。

聖書には、人が理解できるようなことは何一つ書かれていません。
できない事ばかり書かれています。「敵を愛しなさい」もその一つです。

この世には、敵と味方がいます。敵と味方がいるのがこの世だから。
この世では、「敵なんか愛せるわけがない」というのが常識。
これができたなら、その人はこの世に属していない。この世に勝っています。
「本当の愛」は、自分を捨てています。自分の命を守ろうとしない。
だが、自分を捨てることは簡単にはできません。
人間にはできない。しかし、神にはできます。神にできないことはない。