人が変わった?

こういう話をよく聞いたり、目にしたりします。

 ▶あの人は、お金持ちになって人が変わった。
 ▶あの人は、偉くなって人が変わった。

単に生活スタイルが変わったということでなく、人の性格が変わったように思えることが時折あります。
私には、こういった場合、変わるのが普通で、変わらない方が稀なように見えます。

しかし、本当に「人が変わる」ということが起きているのでしょうか?

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敵を愛しなさい

       イエスの言葉


様々な国の、様々な人に対しての非難を耳にします。

しかし、

もし、あなたが中国に生まれたら、あなたが嫌っているあの人のようになっていたかもしれない。
もし、あなたがロシアで生まれたら、あなたが嫌っているあの人のようになっていたかもしれない。

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心は燃えても、肉体は弱い

        <イエスの言葉>

人は基本、場当たり。
場当たりがいけないとよく言われますが、だいたいにおいて場当たりなんです。
「場当たり」は、「時代に即応して」と格好良く表現されることもあります。

脅威や事故や災難を見てみると、よく分かります。
脅威を感じたり、突然の事故が起きたりすると、急遽、色んな対策が練られる。
起きないと、対策は練られない。
その後、脅威や事故が消え去ると、自然に忘れ去られる。対策の効果や関心が薄れていく。
他のところにお金を使おうということになったりする。
戦争の脅威も然り、コロナも然り、地震や津波も然り。場当たりで軍拡、憲法改正、核保有が議論され、場当たりで脅威が増えて一発触発の事態に向かう。いつもの流れ。
危機が去れば、関心が薄れていく。これも、いつもの流れ。
昔から何度も同じ繰り返し。抜け出せないでいる。

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真理とは何か(ピラトの言葉)



ピラトは言った。「真理とは何か。」(聖書:ヨハネによる福音書より)

相手の身になって考えるということは大事です。
ただ、それによって相手を完全に理解できるか言うと、残念ながら理解できません。
そこそこの理解で十分なんです。
理解というのは頭で行いますが、頭には完全理解するほどの力がないからです。

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求めるから与えられる


人は自分の体のことも、宇宙のこともほとんど知らない。
「1/無限」の僅かな知識をもとに、すべてを推し量ろうとしている。
僅かな知識を持った者同士が互いに競い合っている。
どんぐりの背比べのように、数cmの違いを競い合っている。
悲しいことですが、これが現実。

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世界は心を反映する


心が大事です。

世界は、心を反映するからです。
心がそうだから、世界もそうなるという関係にある。
心が物質的なものを求めると、眼前に物質的な世界が映し出されます。
求めて、その結果、そうなる。自分でしたことが自分に返ってくる。
ものに命はない。だから、死ぬことになる。
滅ぶものを求めるから、結果的に自分も滅ぶことになる。
滅ぶものの上に立っているから、ものが崩れると、自分も崩れ落ちる。

心が何を求めるかが、最も大事です。
あなたの求めているところに、あなたの心もあります。
今、あなたは何を求めていますか。それは、滅ぶものですか。
世界と心は全く別なものではない。世界はあなたを映す鏡のようなもの。

個と全体

個があり、全体がある。
人や動物や植物があり、地球があり、そして、星々がある。
これら一つ一つを集めていくと宇宙全体になるのですが、その全体を見たものは誰もいない。
全体という言葉は、抽象的で曖昧です。はっきり知らないのに使っています。
曖昧なんですが、何となく分かったような気がして、それ以上突っ込もうとはしません。

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自分を捨てる

友達同士なら、そう問題は起きない

「お前おかしいぞ」
「そうかな ゴメン」
で終わることが殆ど。
たとえ、そこで終わらない場合でも、大きな喧嘩まで発展することは稀。
「しょうがない奴やなー」で許してしまうこともある。
これは、友達同士なら、互いに相手を信頼し、気心が知れているためです。

だから、まず何よりも先に、理屈以前に、友達になるべきです。
そのためには、自分の内に壁を設けないことが大事です。
自分の外にも縄張りのような壁がたくさんありますが、それらは、自分の内にある壁を反映したものです。

少々のことで腹を立てていると、友達になれないばかりか、敵を作ることになってしまうからです。壁を設けると相手が入ってこれない。
しかし、言うは易く、行うは難し。人の本性は簡単に変えられません。
愛と不屈の忍耐がどうしても必要です。
だから、人には言うが、自分ではしようとしません。偽善者は、自分でできないことを、人にはするように要求するものです。
敵を作ってはならない。もし喧嘩をしたら、早めに仲直りしましょう。

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霊から生まれたものは霊


霊から生まれたものは霊であり、どこから来てどこに行くのか知らない。
生まれた霊(わたし)は何も知らない。霊であることすら知らない。
「知る」にはどうしても言葉がいる。「わたし」はまだ言葉を持っていなかった。
言葉を持って、初めて「知る」ということが起きる。
しかし、「知る」に至る道には、二つの木があった。善悪の知識の木と命の木。
同じ「知る」でも、真理・命に大きな差、天と地ほどの違いがあった。

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聖書の言葉とこの世の言葉

とんでもなく違っていることを「天と地ほど違う」と言うことがあります。
聖書を読むと、一つ一つの言葉が、私達の知っている意味とあまりにも違っていることに気付かされます。
私達が語る言葉と同じ言葉、名前を用いて書かれているのですが、その意味合いが随分異なるのです。
似ているが随分異なっている。
この「似ている」というニュアンスが聖書で言うところの「たとえ」を想起させます。

例えば、「知る」という一つの言葉、名を例に取り上げてみましょう。
私達は「知っている」とか、「理解している」とか、日常的に使っています。
ところが、聖書では、知っている方というのは神しかおられません。
つまり、私たちは何も知らないし、何も理解していないということになります。
「知っている」と語る資格など、私達にはないということになる。
知らないが故に、私達を真理に導こうとして、神は「たとえ」を用いて語られる。
人は元々何も知らない。これが前提にあります。もし、これに気付けないと先には進めない。
「無知を知る」という言葉がありますが、まさに、そこに戻らないとスタートに立てない。

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聖書と人の言葉


言葉で世界を捉えます。

どうして、人は言葉を語るのか、その答えは聖書にあった。

天地創造以前、「わたし」が生まれた時、闇しかなかった。だから、闇に属した。
これは、避けられない。
「わたし」は、まだ、言葉(命)を持っていなかった。だから、何も知らなかった。
水の面を神の霊が動いていたが、知る余地もなかった。闇しかなかった。
すべては、ここから始まった。

後は、光によって、付け加えて与えられていった。天地も人も。これが天地創造です。
すべて、「わたし」のために与えられていった。
「わたし」がどこから来てどこに行くのかを知ることができるように、そうされたのです。
言葉を語るには、世界がいる。世界がなければ言葉が語れない。だから、世界が造られた。
人が言葉を語るための準備がなされた。「わたし」のために次々と与えられていった。
「わたし」は、このことを知らなかった。

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