知識にはめられるな

型にこだわる

頭のいい人(そう思われている人)は、自分の型を持っておられる方が比較的多い。
そして、それを相手にも要求してしまいがち。
それで、摩擦が起きることが多い。自分の型に従わせようとするからです。

★逆に、型など持たず無手勝流で相手の懐に自然に入っていける人は、うまくいくことが多い。

★たくさん学ぶと、どうしても型を作りがちです。でも、それは単に知識程度に留めておいた方がよい。

これしか正しいものはないなんていう信念を抱き始めると、もう大変なことになります。敵を作ってしまう。
ガチガチに固まったら、嫌われるに決まっています。まとまるものもまとまらなくなってしまいます。
ふにゃふにゃぐらいがいいんです。
それでいて、相手を思うことが人一倍であるなら、問題は起きないでしょう。

★心の持ち方が大事。
★無手勝流でいきましょう。執着を離れて。

知識や技術が増えても、人の愚かさは減らない。

知識と愚かさの間に相関関係はなく、相互協力しあって歩調をすすめているだけ。
有史以来、人は何ら成長していない。逆に退化している気がします。
知識や技術が深まった分、陰湿かつ大量の殺りくを可能にしてしまった。
これが人の歴史。
この流れを止めることは難しい。

科学の責任や学問の責任とかで問題を矮小化していては、この流れを止めることはできない。

★詰まるところ、人の本性にかかわる問題だから、一筋縄ではいきません。

客観的に見る

「客観的に見る」というのは難しい。というより、無理なこと。
それは何故か?

客観というのは、純粋に外から見ることですが、残念ながら、見る人も中にいるためです。
純粋の観察者には成りえない。心情的には客観的でありたいという気持ちは理解できますけれど。
観察者自身も内にいて、影響を受けている。傍観者と言いいつつ、純粋の主観者にもなり切れないでいる。

アインシュタインという観察者ですら、中にいて語っています。

観察する人も観察されている。
妙な話に聞こえるでしょうけども。
とは言え、主客があるが故に、「主客合一」(=依正不二)を悟ることも可能なんです。簡単ではないが。