尋ねるのは何故?

人には「なぜ?」と尋ねる知的探求心があります。
そして、不思議な世界があります。
もし、探求心がなければ、不思議な世界もない。
もし、探求心が全て満たされたなら、不思議さも消え去るでしょう。

やっと解明できたと思っても、更に分からないことが出てくるものです。

本質を知らないまま、枝葉の部分だけで分かったと錯覚していることって本当に多いんです。自分では、錯覚しているとは思わないから厄介なんです。

枝葉をいくら細かく調べても、結局、枝葉しか出てこない。
この世の物差しで測る限り、「なぜ?」は永久に続きます。

物差し自体が枝葉を基準にしている為、測っても、本質はこぼれ落ちてしまう。

霊から生まれたものは霊


霊から生まれたものは霊であり、どこから来てどこに行くのか知らない。
生まれた霊(わたし)は何も知らない。霊であることすら知らない。
「知る」にはどうしても言葉がいる。「わたし」はまだ言葉を持っていなかった。
言葉を持って、初めて「知る」ということが起きる。
しかし、「知る」に至る道には、二つの木があった。善悪の知識の木と命の木。
同じ「知る」でも、真理・命に大きな差、天と地ほどの違いがあった。

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聖書の言葉とこの世の言葉

とんでもなく違っていることを「天と地ほど違う」と言うことがあります。
聖書を読むと、一つ一つの言葉が、私達の知っている意味とあまりにも違っていることに気付かされます。
私達が語る言葉と同じ言葉、名前を用いて書かれているのですが、その意味合いが随分異なるのです。
似ているが随分異なっている。
この「似ている」というニュアンスが聖書で言うところの「たとえ」を想起させます。

例えば、「知る」という一つの言葉、名を例に取り上げてみましょう。
私達は「知っている」とか、「理解している」とか、日常的に使っています。
ところが、聖書では、知っている方というのは神しかおられません。
つまり、私たちは何も知らないし、何も理解していないということになります。
「知っている」と語る資格など、私達にはないということになる。
知らないが故に、私達を真理に導こうとして、神は「たとえ」を用いて語られる。
人は元々何も知らない。これが前提にあります。もし、これに気付けないと先には進めない。
「無知を知る」という言葉がありますが、まさに、そこに戻らないとスタートに立てない。

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年齢と意欲

もう私も70代です。

ブログでは偉そうなことを書いていますが、聖人君子でもなく、結構いい加減なおじさんです。書く時だけは真面目になりますが、これは致し方ない。

当パソコン教室に来られる方は、年配の方が殆ど。

中には90歳近い方もおられる。普段は二階の教室で教えていますが、その方だけは足や体が悪いので、一階の居間で教えています。
歩くのも大変なので、体を支えながら靴を脱いだり、抱えながら居間に上がってもらいます。
Wordを学ぶと言っても、簡単な一つぐらいの機能だけなんですが、たったそれだけでものすごく感激されておられる。そして、感謝される。
どうしても、手紙を書きたいという一心で習いに来られているんですね。
ちょっとしたことを学んでも、その人にとっては、ものすごく大きな収穫なんです。
教える私としても喜んでいただいたら、それで十分。評価とかは一切不要。これが最高かな。
その方は、昔は府庁の偉いさんだったそうな。今となっては、関係ないですね。本人も私も。

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聖書と人の言葉


言葉で世界を捉えます。

どうして、人は言葉を語るのか、その答えは聖書にあった。

天地創造以前、「わたし」が生まれた時、闇しかなかった。だから、闇に属した。
これは、避けられない。
「わたし」は、まだ、言葉(命)を持っていなかった。だから、何も知らなかった。
水の面を神の霊が動いていたが、知る余地もなかった。闇しかなかった。
すべては、ここから始まった。

後は、光によって、付け加えて与えられていった。天地も人も。これが天地創造です。
すべて、「わたし」のために与えられていった。
「わたし」がどこから来てどこに行くのかを知ることができるように、そうされたのです。
言葉を語るには、世界がいる。世界がなければ言葉が語れない。だから、世界が造られた。
人が言葉を語るための準備がなされた。「わたし」のために次々と与えられていった。
「わたし」は、このことを知らなかった。

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聖書と言葉

イエスは言われた。
「光はいましばらくあなた方の間にある。」
「いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。」
           <ヨハネの福音書抜粋>

見えるイエスとして示されながら、私達に見えていない「命」として語られている。
今迄長い間見ることも聞くこともできなかった命の声を聞いている。
私達を内から照らしている「光」として語られている。
光は命です。肉の目からは見えない。見えない者のために、見えるものとして遣わされた。
光はこの世に、しばらくの間、留まりますが、しばらくすると、去っていく。
神から生まれたものは、神のもとに返るが、塵から生まれたものは、塵に返る。
神は、死んだ者(塵にすぎないもの)にも、しばらくの間だけ命を与えられる。
現れたイエスを見て、隠された真理を見る。
客観として見るのではなく、自分自身を見る。

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聖書と「わたしはある」


ポット灯りがついて生まれる。ポット灯りが消えて死ぬ。
ロウソクの灯で見ていると、そうなる。ロウソクの灯は束の間の明かり。
ところが、よく見ると、その消える灯に消えないものがあった。
それが見えないのは、わたしの内に光がないためだった。

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アバウトな世界


今見ている世界は、人の目から見た世界です。
当たり前と言えば当たり前ですが。
見え方は、地上における体の大きさや目の位置、それに応じた感性・能力などからきます。
その目でもって、人は空や森や川や星を見たり、オリンピックを見たりします。
人同士は、同じような感覚と感性で世界を捉えているので、互いの会話が成り立つ。
その世界しか見ていないと、その世界しかないと思ってしまうのもうなづけます。

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法律が一番大事なの?

法律について普段思っている疑問を、とりとめもなく書いてみた。雑書きです。
法律に詳しくない私が書いているので、認識相違も多いし、まとまりもないです。
疑問をダラダラと書いただけで、具体的な解決方法には、一切触れておりません。


法律が一番大事だと思っているのは、勉強のできる知識人に多いようです。
困ったことに、法律に詳しい人ほど、その抜け道もよく知っておられる。非常に巧妙です。
表(おもて)では法に触れると知っているので、誰も知らない裏で悪事を働く人もおられる。
知識人の中には、善い悪いを法律を基準に考える方が結構おられます。
逆に言うと、法に触れなければ、何でもありのような方が見受けられる。
「法律を守っています」と主張する人に限って、どうも胡散臭い気がしてならない。
法律を知っていようが知らまいが、悪い人は悪いことをします。
知識人は知識で勝とうとします。知識の少ない私には、ここがどうしても理解できない。
知識だけで言えば、知識のある人が、知識のない人に勝つのは当たり前です。
ただ、知識で勝ったものが正しいとは限らない。していることが正しい方が正しい。

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母の死

人が人を理解することなど不可能です。たとえ、自分の子であっても。

私の母は今年に亡くなりました。
母は認知症がひどかった。度々注意しても、反発ばかりで殆ど意味がなかった。
叱るのではなく、「やさしく笑いながら、こうしようね」ともっていくほかなかった。
頭とか理屈は、ほとんど役に立たないと知った。
強靭な愛でもってしか勝てない、通じ合えないと。
自分のことなど捨ててかからないと相手には通じない。全てにおいてそうなんです。
「相手を理解することができる」ということは、とんでもない錯覚で、傲慢でしかない。
頭は本当に役に立たないんです。ろくなことしか考えない。

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