アバウトな世界


今見ている世界は、人の目から見た世界です。
当たり前と言えば当たり前ですが。
見え方は、地上における体の大きさや目の位置、それに応じた感性・能力などからきます。
その目でもって、人は空や森や川や星を見たり、オリンピックを見たりします。
人同士は、同じような感覚と感性で世界を捉えているので、互いの会話が成り立つ。
その世界しか見ていないと、その世界しかないと思ってしまうのもうなづけます。

蟻(アリ)は、どういう世界を見ているのでしょうか。
土の中では、大分様子が異なってきます。
蟻は、空も森や川などは知らないし、オリンピックというのもない。
そもそも、蟻には、人が捉えているような世界はない。
しかし、女王蟻を中心とした統率された世界があるように見受けられます。
それぞれの生き物には、人がまねることのできない優れた能力をたくさん持っています。
それぞれの生き物には、それぞれの世界があります。
そして、それぞれの世界が互いに知らないところで緊密に結びついている。不思議です。

人は蟻の生態を研究することはできても、蟻の世界に入ることはできない。
いくら研究して知識を増やしても、蟻にでもならないかぎり、蟻を本当に知ったと言えない。
これが、知識の限界です。蟻に限らず、「本当に知る」ということは不可能に近いんです。
人は蟻ではないので当たり前なんですが、少し勉強すると知ったような錯覚に陥りやすい。
「相手の身になって考える」ことは大事ですが、「相手の身になる」ことはとても難しい。
人も蟻も同じ地上にいるのに、認識世界は違うんです。人は人なり、蟻は蟻なりです。
一匹の蟻は、今日、人の足で踏みつぶされるかもしれない。しかし、蟻には、人が踏んだという認識はない。蟻の巣が何度壊されても、元通りにしようと頑張っている。諦めない。
実を言うと、人も同じなんです。
人の場合、こうこうでこうなったと理屈付けしますが、本当のところは分かってないんです。
因果律とか法則とかに真理を見出そうとしますが、実際のところ、それもあやふやなんです。
もし、本当に因果律を知っているなら、明日何が起きるかも分かるはずです。しかし、実際には分からない。
人のできる範囲というのは、ものすごく小さいんです。人は自分を過大視しすぎている。

学ぶことや知ることって、アバウトなんです。「こうしたから、ああなったんだろう」というアバウトな経験則にすぎない。固い石でも突然砕ける時があるんです。
アバウトを集めたものが知識。絶体ではないですが、アバウトとして役に立つこともあるんです。ただ、自分で体験していない事は分かりようがないので、「分からない」でいい。
アバウトをどれだけ分析しても、アバウトなものしか出てこない。人の目はアバウトでしか捉えられないためです。たとえ精密機器を使おうとも。
人は本来、アバウトで生きているのであって、エビデンスとか法則や法律に基づいて生きているわけではない。
エビデンスなどは、後から人が考え出したもので、絶対的なものではない。
最近、エビデンスという言葉が好まれているので、少し反発してみました。
アバウトなのに絶対こうだと言い張るから、対立が生じる。皆、自分が正しいと主張しますが、正しさなんて誰も知らない。つまり「知らない」が正しいんです。
アバウトを認める謙虚さが大切なんです。優れた人ほど謙虚ですが、目立たないんです。
中途半端に賢い人が、吠えて人に噛みつき、力を誇示している。そして、力が勝っている。
アバウトに満足できないので、真理を求めようとします。これが、人が人たる所以です。
ところが、いくら頭を使っても、「絶対」を見つけることはできない。知識では無理。
真理は知識ではないからです。
知識を絶対視すると、元々のアバウトな行動に変容が起きて、歯車が狂ってしまいます。

世界というのは、捉える主体によって様々です。
主体によって、語る言葉が異なるからです。
「もし、人が全滅したら、世界はどう見えるか?」といった場合、もはや人が捉える世界はないんです。
もはや、人の感覚で想像しても意味がないんです。人がいないんだから。
蟻がいるなら、蟻の世界はあるでしょう。蟻には世界という概念はないですが。