年齢と意欲

もう私も70代です。

ブログでは偉そうなことを書いていますが、聖人君子でもなく、結構いい加減なおじさんです。書く時だけは真面目になりますが、これは致し方ない。

当パソコン教室に来られる方は、年配の方が殆ど。

中には90歳近い方もおられる。普段は二階の教室で教えていますが、その方だけは足や体が悪いので、一階の居間で教えています。
歩くのも大変なので、体を支えながら靴を脱いだり、抱えながら居間に上がってもらいます。
Wordを学ぶと言っても、簡単な一つぐらいの機能だけなんですが、たったそれだけでものすごく感激されておられる。そして、感謝される。
どうしても、手紙を書きたいという一心で習いに来られているんですね。
ちょっとしたことを学んでも、その人にとっては、ものすごく大きな収穫なんです。
教える私としても喜んでいただいたら、それで十分。評価とかは一切不要。これが最高かな。
その方は、昔は府庁の偉いさんだったそうな。今となっては、関係ないですね。本人も私も。

昨日は、パソコンの自作をして困ったという方が来られた。
BIOS画面から全く先に進まないということで。色々、パソコン内部を外したりして調べましたが、結局、内部電池を外して、しばらくして元に戻したら動くようになった。
偉く喜ばれた。「さすがプロ!」と褒められたが、何か面はゆい感じだった。
ASUSのマザーボードを購入し、M.2 SSDやCPUとか全部選んで自作されているんです。
帰られる際に年齢を聞いたら、何と80歳とのこと。
え!と思った。60代ぐらいにしか見えなかったんです。人は見かけによらないものだ。
その方は、昔、会社の社長さんだったそうな。今となっては、関係ないですね。本人も私も。

意欲というのはすごいもんだと感心します。どこから出てくるのかと思わざるを得ない。
こういった方を見てると、少し意欲の失いがちになった私に勇気をもらえる気がします。


とは言え、歳と共に、その意欲は少しづつ薄れて、最後は関心すら示さなくなってくるもの。
これは、母と父を長い間介護してきたのでよく分かる。突然、そうなるんです。
あれだけ畑仕事ばかりしていた二人が、畑に連れて行っても何の関心も示さなくなるんです。
心の中では、全く興味がないわけでもないんですが、体が動かないので、傍からは、関心が全くないように見えてしまうこともあります。

心は体に適応してきます。目が見えなくなっても、本人は別に不自由だと思わなくなります。
「見えないんか!」とこちらが大声で言うと、逆に叱られたりします。プライドは結構残っているんです。聞こえていないようで、結構聞こえているんです。
以前は色んな考えや色んな行動ができたが、結局、一つの「思い」に収斂していくようです。

テレビを見る、電話をする、こういった当たり前の生活ができなくなる時が来る。
当たり前の生活に感謝できないなら、本当の喜びも少ないでしょう。
当たり前って、実は当たり前でないんです。失って初めて分かる。ところが、命は、失ってからではもう遅いんです。

養護老人ホームに限らず、当たり前の生活ができない方が多いです。
ニュースでは、華々しい話題や醜い戦いしか話題に出てきませんが、陰には、こういう人がたくさんおられるという事実を忘れてはいけない。主張できない人も多いんです。

畑を耕したり、家を建てたり、パソコンを作るなどして世界に働きかけをするのは、すべて土を耕すこと。
土を耕す意欲がなくなると、自分が土に返っていく。世界への働きかけは失う。
塵にすぎないものは塵に返る。
知らない間に生まれ、知らない間に死んでいく。