原理と予測

★どうしてこうなったのかは、結果から推察していくもの。「原理」です。
★これからどうなるのかは、「予測・予言」の世界です。
  そして、予測は原理から導かれるというのが、近代のやり方。

◎予測や予言ができる人が最も能力が高い。(能力にはたくさんありますが)
  これは、古代からそうでした。予言者や祈祷師など。

算数や勉強ができても、予測や予言ができなければ、能力が高いと言わない。
原理だけを唱える人が優れていると言われるのを聞くと、違和感を感じます。
いくら原理を唱えても、先を当てられなければ、その原理は不確かということ。予測や予言が当たるか外れるかで、真偽が検証されるからです。

人がすべての要素を把握するのはとても難しい。だから、原理に基づいて予測することもとても難しい。

人はおおまかにしか捉えられないんです。限界がある。なのに、何とか全部を捉えようとする恐ろしい野望を持っています。
人の限界と無限の能力の両方を感じてしまいますね。

問題から逃げない

★問題解決は、逃げたらダメ。

逃げたら、また、襲ってきます。同じことを繰り返すだけ。
逃げて解決した試しがない。放っておくと、雪だるまのように大きくなる。

仕事で万事休すになった時、悩んで悩んで模索していると、ある時、ポット解決策が出てくる。助けられた感じ。
不思議なくらい、いつもそうだった。仕事以外でも同じ。
問題が生じたら、正面突破するしかない。逃げたらあかん。このことを人生を通して学んだ。
それしか「自分の殻」を破る方法はない。破って初めて、「脱皮」する。

「見て見ぬふり」や「後回し」は許されない。自分を潰してしまう。

老いて思うこと

今を生きることが大事

過去の栄光や成功は、今を生きる上で、かえって邪魔になることが多い。
今の自分は過去の自分と同じではない。
過去に出来たことが今できるとは限らない。
体はクタクタなのに、頭を若い時に合わせても、体は頭通りに動いてくれない。
困ったことに、頭はたまに暴走することがある。
頭でっかちというのは非常に危険。外に出て動くことが大事です。
頭の中で、空想、仮想の世界に入ってしまうと、現実世界に適合できなくなります。

行動してぶつかって初めて、答えが跳ね返ってくる。自分自身を知ります。
行動もしないで頭で答えを見つけても、その答えは非常に薄っぺらです。仮想的です。
体験や実験でしか、答えが出てこない。体験でしか人は学べません。

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世界とわたし

世界の中にいながら、世界を客観的に見ている。
このことは、矛盾しているかに思えます。
何故なら、客観的に見ると、自分と世界が分かれてしまい、世界の中にいないことになる。
つまり、中にいるのに、外から見ているという矛盾が生じる。
中にもいるし、外にもいるというおかしなことになる。

ところが、どんなにおかしく思えても、心とはそういうものなんです。
中にいつもいながら、外に出たり入ったりするからです。
この世に入ったり出たりするからです。
このことは、常識を超えているため、通常、理解不能です。

心は大事です。
何故なら心でもって見えているからです。
心は目です。
目が濁っていると、正しく見えず、偽の世界に取り込まれる。
心次第で世界が変わる。
心と世界は一体で切り離すことができない。
心なくして世界はなく、世界なくして心はない。
心と世界という風に名前で分けても、実体は一つ。
パット見たら分かれて見える。が、よくよく見たら分かれていない。
分けたままで留まっているなら、真実は遠い。
澄んだ目、澄んだ心でいつも見ていたい。

力について

力で全てが決まるとまでは言わないが、殆ど決まっているように見えます。
ここで言う力とは、物理的な力だけでなく、世の中を支配する力も含んでいます。
個人も団体も組織も国も、力を求めて活動している。
この世は、すべて力学でもって解ける気がします。いい悪いは別にして。

磁石をいくら小さく砕いてもNとSとに分かれるように、極性の存在は世界の本質です。
そして、その力の拮抗で安定が保たれている。ものも世界も。
物理世界と人の精神世界は大変似ています。動物その他もそう。
少し考えたら分かりますが、支配されるものがいなければ、支配するものも存在しえない。
相対立するものがあって力が生じる。単体では起きない。
この世は両方を必要としているんです。どうしても対立させたいんです。
支配されているものも、支配したいと思っています。極性というのはどこを切ってもNとSのように出てくるからです。自分の中にも両方がある。
誰もが力を欲しがる。その一人一人の行動が集まって世界に反映する。
力学が全てだと思いたくないが、殆ど力学に支配されている気がします。

私は力学に支配されるのではなく、力学を支配したいと切に願っています。
NとかSとかいう名前は単なる概念に過ぎない。実在そのものではない。
私達は力を現象として見ているだけで、力そのものを見ているわけではない。

コロナの謎

何となく新型コロナが収束に向かっています。

どうして感染者が減っていったのか謎のままです。
減った原因が分からないんですから、増えた原因も実はよく分かっていないことになる。
現実に減っているんだから、それでいいじゃないかという雰囲気になってきています。
「喉元過ぎれば、・・・」ですね。
ワクチン接種により減ったというのは、少しはあるかもしれないが、大方は違う気がします。
ワクチンがまだできていない時にも、一時、ほぼ収束したことがありましたし。

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栗ご飯

昨日の朝、何となく、栗ご飯が食べたくなって、栗の皮をむいていました。
20個の栗の皮を「くりくり坊主」を使って、ほぼ鬼皮を剥ぎ終わりました。
後は、渋皮を剥ぐだけだったんですが。

その時、突然電話が鳴った。
近所のおばあちゃんからだった。(85歳で一人暮らし。知合い)
「〇〇さん、栗売ってくれませんか」と。(私は栗農家でもあり、ネット販売をしています)
「もう栗終わりましたよ」私は答えた。(9月に売り切れたので、今は在庫ゼロ)
「栗をどうするのと」聞いたら、「栗ご飯が食べたい」と言われた。

「え!」と思った。今の自分と全く同じだったもんで。
最初、自家用として冷蔵庫に保管している生栗を20個程あげようかなと思ったのですが、デイサービスに通われているおばあちゃんには、栗剥きはとても危険だと思ったんです。
結局、今、剥いている最中の栗20個をそのまま、あげることにした。
澁皮を全部剥いで綺麗にして、そのまま、おばあちゃんのところに持って行ってあげました。
大変喜んでいただいた。タダで。

私が朝から剥いていた栗は、私のお腹に入る予定だったが、おばあちゃんのお腹に入ることとなった。
栗を剥いている最中にタイミングよく電話が鳴ったのは、最初から剥いた栗をおばあちゃんにあげるようになっていたんじゃないかという気がしてならなかった。
お腹に入るのは同じなんで、いいとしよう。
ちょっと不思議に思えたが、こういうことってたまにある。
今度は、自分で食べるために、今日これから剥こうとしているのが上の写真です。

個と全体

個があり、全体がある。
人や動物や植物があり、地球があり、そして、星々がある。
これら一つ一つを集めていくと宇宙全体になるのですが、その全体を見たものは誰もいない。
全体という言葉は、抽象的で曖昧です。はっきり知らないのに使っています。
曖昧なんですが、何となく分かったような気がして、それ以上突っ込もうとはしません。

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相対的

じっとしている者から見ると、動いているものはエネルギーを使っていて大変だと思うに違いない。
逆に、いつも動いている者から見ると、じっとしていることはエネルギーを使っていて大変だと思うだろう。
止まっているのが常態なのか、動いているのが常態なのか。
この議論は、実のところ、あまり意味がありません。
と言うのは、どちらでも捉えられるからです。そう見るとそうなる。
実際のところ、動いて見えるが本当に動いているのか、止まって見えるが本当に止まっているのかよく分からないんです。
人の感覚というのは、当てにならないところがあります。
なので、この議論にエネルギーを使う方が無駄ということになります。

上とか下もそう。頭を基準にして上とか下とか言います。相対的。
地球の反対側にいる人の上は逆になります。
つまり、絶体的な上、下、真ん中というのはないんです。
広い宇宙を見ると分かるが、どこが真ん中か分からない。端がないと真ん中は決められない。つまり、真ん中という言葉が不要になる。
地球では上から下に水が流れるが、宇宙空間ではそうならないので、上とか下とかいう概念はあまり役に立たない。
地球という場と宇宙という場では、同じように語れない。
どの場にいるかで、日常用語も変わってこざるを得ない。同じ基準が当てはまらない。
観測者がどの場にいるかで、基準自体を替えないといけないことが起きます。もし変えずに測ると、ズレて頭がおかしくなってくる。
私達が使っている言葉は生活する上では役に立ちますが、不変の真理を知る上では、邪魔になることが多い。
相対を超えて、より絶体を求めようとしても、相対から脱すること自体が難しい。
人が定めた基準は、そもそも絶対基準になり得ない。

あるものを具体化しようとして、具体化した途端に、あるものの本来の姿が失われてしまう

表現の限界

あまりにも短い出来事には、思考はついていけない。
よくお相撲さんが自分の取り組みを覚えていないことがありますが、このためです。
思考はいつも少し遅れる。瞬時な出来事は捉えられません。人は人の能力の範囲内でしか捉えられないからです。
「先」とか「後」とかという風に、「言葉」で捉えるのは、思考の働きによって行われています。
思考以前の段階で、動きを感じるわけですが、それを言葉で表現しようとすると、時間が加わってきます。
思考は、そのものを表現しようとしますが、そのものを表現しきれない。
食べたものの味を、言葉で正しく人に伝えられないのと同じです。
正しく表現することは、ほぼ不可能です。

ファクトを思考で捉えても、その時点でもうファクトでないんです。
ファクトはその時限りなんです。思考は後追いだから、いつも間違いが生じてしまう。
言葉で正確に表現することは、ほぼ不可能なんです。

自分を捨てる

友達同士なら、そう問題は起きない

「お前おかしいぞ」
「そうかな ゴメン」
で終わることが殆ど。
たとえ、そこで終わらない場合でも、大きな喧嘩まで発展することは稀。
「しょうがない奴やなー」で許してしまうこともある。
これは、友達同士なら、互いに相手を信頼し、気心が知れているためです。

だから、まず何よりも先に、理屈以前に、友達になるべきです。
そのためには、自分の内に壁を設けないことが大事です。
自分の外にも縄張りのような壁がたくさんありますが、それらは、自分の内にある壁を反映したものです。

少々のことで腹を立てていると、友達になれないばかりか、敵を作ることになってしまうからです。壁を設けると相手が入ってこれない。
しかし、言うは易く、行うは難し。人の本性は簡単に変えられません。
愛と不屈の忍耐がどうしても必要です。
だから、人には言うが、自分ではしようとしません。偽善者は、自分でできないことを、人にはするように要求するものです。
敵を作ってはならない。もし喧嘩をしたら、早めに仲直りしましょう。

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