聖書と「わたしはある」


ポット灯りがついて生まれる。ポット灯りが消えて死ぬ。
ロウソクの灯で見ていると、そうなる。ロウソクの灯は束の間の明かり。
ところが、よく見ると、その消える灯に消えないものがあった。
それが見えないのは、わたしの内に光がないためだった。

「わたし」が生まれたのは、「わたしはある」ということを証するため。
「わたしは肉である」ということを知るためではない。

「わたしは肉である」なら、死ぬ。
「わたしはある」は、究極の真理、永遠の命。

「わたし」が言葉、名でもって神を示すなら、「わたしはある」です。
天地創造以前から「わたしはある」ということを、「わたし」が証している。
子しか父を証するものはいない。子だけが「わたしはある」と言える。
聖書は、「わたし」について書かれた書、つまり、「真理」の書です。
「わたしがどこから来てどこにいくのか」について書かれている。

「わたし」は、元々何も知らないところから始まった。天地創造以前です。
そして、「わたしはある」を知って完結する。
天地は、始まりがあり、終わりがある「言葉の世界」です。
始まりと終わりのある世界へ「わたし」が連れて行かれるのは、永遠の命を得るため。
神が言葉を語られるように、人にも「神と似た言葉」を与えられた。
言葉によって人は生きるものとなった。名で呼んで語るものとなった。
「わたしはある」を知り、悟るなら、もはや始まりもなければ終わりもない。永遠。
最初からそうであったことを、そうだと知るのは後になる。時を通して知る。

「知る」とは、知らないところから始まって、最後に知るから「知る」と言います。
始めがあり、終わりがある。
光と闇に分けられたのは、そのため。分けられなければ、「知る」ということも起きない。

闇は、「霊から生まれたものは霊であり、自分がどこから来てどこに行くのか知らない」ことから起きる。そして、この根幹の闇は、とてつもなく深いのです。

生まれた霊は、まだ、言葉(命)を持っていなかった。闇だけがあった。
神は、「光るもの」によって、時や広がりを示される。
時や広がりは「ある」のではなく、示されたものです。「たとえ」に用いられる。
そして、「時間と空間」の塵を集めて器を造られる。そして、そこに命を入れられる。
人が「動き」を、時や広がりでもって感じることができるのは、このためです。
神は、わたしに「たとえ」を用いて語られる。
もし、広がりや動きがなければ、「どこから来てどこに行く」とかの概念すら生じない。
時空の概念を通るからこそ、時空を超えたものへと導かれる。似せて造られたからです。
「父の内にわたしがおり、わたしの内に父がおられる」=「わたしはある」
この「わたしはある」は、「父のもとから出て、この世に来たが、今、この世を去って父のもとに行く」という時空の概念で語られるから導かれる。
現わされなければ、現わしておられる方を知ることはできない。

いきなり、神を知ることなどできない。
だからこそ、光と闇に分けられた。だからこそ、天地が創造されたのです。
「わたし」を知らないで、神を知ることはできない。
「わたし」を通らないで、神の霊までたどり着くことはできない。
「わたし」を知っているなら、神をも知っています。
「わたしとは一体何か?」これを尋ねるところから始めないといけない。
「わたし」を本当に知ったなら、もはや尋ねない。
「神は霊としての主、わたしは言葉としての主」と言葉では分けますが、一つの神です。
名でもって分けられるからこそ、「知る」ということが起きる。

とは言うものの、「わたし」のことがよく分からない。
なので、イエスの言葉を聞いて、隠れた言葉を聞いて、秘儀に触れます。
イエスの「たとえ」を見て聞いて、「真理」に導かれる。「たとえ」に真理があるからです。

「たとえ」は、見えないものを示すために用いられます。
見えない「光と闇」を、「昼と夜」として示され、塵で現わされる。
人は、まさに、「たとえ」によってのみ導かれる。ここに神の愛を感じます。
「たとえ」を本当に知るなら、「真理」をも知る。そのようにされている。

イエスの肉を見ても、食べなければ、肉のままで留まる。神の業を見ないで終わる。死ぬ。
塵にすぎないものは死ぬ。器も中身も造られたのは神なのです。
イエスの肉を食べるなら、「たとえ」がそのまま「真理」へと移ります。
「たとえ」は神が語られており、まさに神のなさる業を見ている。
イエスの言われる「わたし」が、「本当のわたし」だと分かる。
わたしがわたしを知り得るのは、光によってです。
子となって初めて、父の内に入れる。この時に至って、神に属す。

「わたしはある」は信じるしかない。命を与えるのは霊だからです。
人の能力でもって理解できるものではないからです。
「肉が霊と水である」ということなど、誰が信じるでしょうか。
信じることすら難しい。まさに、難信難解です。
肉から生まれたものは肉だからです。
肉は、死なないと生きない。この世の命を憎まずに永遠の命はない。
生きるものとなるために死ぬ。まさに、そのために、この世に連れてこられた。

しかし、神には何でもできる。できないことはない。これを信じるかです。
信じるなら、それが神の業となっています。人には信じられないからです。
とは言え、神から少しは学んでいないと、少しも信じることはできない。
信じる気持ちが全くゼロで、信じることなどできない。
小さな種がいります。その後は、その種をどう育てるかによる。
種はすべての人にあるのですが、普段眠っています。
ところがふとした時に、たたき起こされることがあるのです。

天地は、神の言葉の世界なので、神の業をあちこちに見つけることができます。
しかし、全くこれに触れることがなければ、「わたし」のところに来ようとしない。
真理はいつもあり、光はいつもあります。
命を与えるのは霊です。求めるものしか、与えられない。

全く何も知らないのであれば、罪はなかった。ただ、これは神の本意ではない。
神の御心は永遠の命だからです。
この世は、知らないのに知っていると語っています。だから罪がある。
この世は、見ていても見えず、聞いていても聞こえない。
もし、光がなければ、どんなに暗いことか。光があるから生きている。

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