聖書の言葉とこの世の言葉

とんでもなく違っていることを「天と地ほど違う」と言うことがあります。
聖書を読むと、一つ一つの言葉が、私達の知っている意味とあまりにも違っていることに気付かされます。
私達が語る言葉と同じ言葉、名前を用いて書かれているのですが、その意味合いが随分異なるのです。
似ているが随分異なっている。
この「似ている」というニュアンスが聖書で言うところの「たとえ」を想起させます。

例えば、「知る」という一つの言葉、名を例に取り上げてみましょう。
私達は「知っている」とか、「理解している」とか、日常的に使っています。
ところが、聖書では、知っている方というのは神しかおられません。
つまり、私たちは何も知らないし、何も理解していないということになります。
「知っている」と語る資格など、私達にはないということになる。
知らないが故に、私達を真理に導こうとして、神は「たとえ」を用いて語られる。
人は元々何も知らない。これが前提にあります。もし、これに気付けないと先には進めない。
「無知を知る」という言葉がありますが、まさに、そこに戻らないとスタートに立てない。

人は「たとえ」を食べた。たとえを実在にしたために、たとえがたとえでなくなった。
人は元々はたとえで聞いていた。似ていることで真理に至る寸前にあったのですが。
「知る」に至る前に、木が二つある。
善悪の知識の木と命の木。どちらも「知る」という名で呼ぶものの、天と地ほどの違いがあります。
こうして、人はたとえで聞くことができなくなった。目の前のものが真理、実在となった。
あらゆるものに名前を付けてたとえで呼んでいたのに、あらゆるものは実在化した。
神の言葉が失われ、神はいないことになってしまった。

知らないから、神は導こうとされるのですが、知っていると勝手に語り始めると、もはや導こうとはされない。自分を神としているからです。
知らないのに知っていると語るのが、この世。自分が知っているものとして語り、最後まで知らないことを認めようとしない。
知らないことを思い知らされなければ、知らないことに気付けなくなった。
人はたとえで学びます。最後にたとえなしでも分かるようになるために。