アバウトな世界


今見ている世界は、人の目から見た世界です。
当たり前と言えば当たり前ですが。
見え方は、地上における体の大きさや目の位置、それに応じた感性・能力などからきます。
その目でもって、人は空や森や川や星を見たり、オリンピックを見たりします。
人同士は、同じような感覚と感性で世界を捉えているので、互いの会話が成り立つ。
その世界しか見ていないと、その世界しかないと思ってしまうのもうなづけます。

蟻(アリ)は、どういう世界を見ているのでしょうか。
土の中では、大分様子が異なってきます。
蟻は、空も森や川などは知らないし、オリンピックというのもない。
そもそも、蟻には、人が捉えているような世界はない。
しかし、女王蟻を中心とした統率された世界があるように見受けられます。
それぞれの生き物には、人がまねることのできない優れた能力をたくさん持っています。
それぞれの生き物には、それぞれの世界があります。
そして、それぞれの世界が互いに知らないところで緊密に結びついている。不思議です。

人は蟻の生態を研究することはできても、蟻の世界に入ることはできない。
いくら研究して知識を増やしても、蟻にでもならないかぎり、蟻を本当に知ったと言えない。
これが、知識の限界です。蟻に限らず、「本当に知る」ということは不可能に近いんです。
人は蟻ではないので当たり前なんですが、少し勉強すると知ったような錯覚に陥りやすい。
「相手の身になって考える」ことは大事ですが、「相手の身になる」ことはとても難しい。
人も蟻も同じ地上にいるのに、認識世界は違うんです。人は人なり、蟻は蟻なりです。
一匹の蟻は、今日、人の足で踏みつぶされるかもしれない。しかし、蟻には、人が踏んだという認識はない。蟻の巣が何度壊されても、元通りにしようと頑張っている。諦めない。
実を言うと、人も同じなんです。
人の場合、こうこうでこうなったと理屈付けしますが、本当のところは分かってないんです。
因果律とか法則とかに真理を見出そうとしますが、実際のところ、それもあやふやなんです。
もし、本当に因果律を知っているなら、明日何が起きるかも分かるはずです。しかし、実際には分からない。
人のできる範囲というのは、ものすごく小さいんです。人は自分を過大視しすぎている。

学ぶことや知ることって、アバウトなんです。「こうしたから、ああなったんだろう」というアバウトな経験則にすぎない。固い石でも突然砕ける時があるんです。
アバウトを集めたものが知識。絶体ではないですが、アバウトとして役に立つこともあるんです。ただ、自分で体験していない事は分かりようがないので、「分からない」でいい。
アバウトをどれだけ分析しても、アバウトなものしか出てこない。人の目はアバウトでしか捉えられないためです。たとえ精密機器を使おうとも。
人は本来、アバウトで生きているのであって、エビデンスとか法則や法律に基づいて生きているわけではない。
エビデンスなどは、後から人が考え出したもので、絶対的なものではない。
最近、エビデンスという言葉が好まれているので、少し反発してみました。
アバウトなのに絶対こうだと言い張るから、対立が生じる。皆、自分が正しいと主張しますが、正しさなんて誰も知らない。つまり「知らない」が正しいんです。
アバウトを認める謙虚さが大切なんです。優れた人ほど謙虚ですが、目立たないんです。
中途半端に賢い人が、吠えて人に噛みつき、力を誇示している。そして、力が勝っている。
アバウトに満足できないので、真理を求めようとします。これが、人が人たる所以です。
ところが、いくら頭を使っても、「絶対」を見つけることはできない。知識では無理。
真理は知識ではないからです。
知識を絶対視すると、元々のアバウトな行動に変容が起きて、歯車が狂ってしまいます。

世界というのは、捉える主体によって様々です。
主体によって、語る言葉が異なるからです。
「もし、人が全滅したら、世界はどう見えるか?」といった場合、もはや人が捉える世界はないんです。
もはや、人の感覚で想像しても意味がないんです。人がいないんだから。
蟻がいるなら、蟻の世界はあるでしょう。蟻には世界という概念はないですが。

法律が一番大事なの?

法律について普段思っている疑問を、とりとめもなく書いてみた。雑書きです。
法律に詳しくない私が書いているので、認識相違も多いし、まとまりもないです。
疑問をダラダラと書いただけで、具体的な解決方法には、一切触れておりません。


法律が一番大事だと思っているのは、勉強のできる知識人に多いようです。
困ったことに、法律に詳しい人ほど、その抜け道もよく知っておられる。非常に巧妙です。
表(おもて)では法に触れると知っているので、誰も知らない裏で悪事を働く人もおられる。
知識人の中には、善い悪いを法律を基準に考える方が結構おられます。
逆に言うと、法に触れなければ、何でもありのような方が見受けられる。
「法律を守っています」と主張する人に限って、どうも胡散臭い気がしてならない。
法律を知っていようが知らまいが、悪い人は悪いことをします。
知識人は知識で勝とうとします。知識の少ない私には、ここがどうしても理解できない。
知識だけで言えば、知識のある人が、知識のない人に勝つのは当たり前です。
ただ、知識で勝ったものが正しいとは限らない。していることが正しい方が正しい。

私は知識人ではないので、法律のことは詳しくないし、一番大事だとも感じていない。
どこでも法律を持ち出してくる人というのは、疎まれやすい気がします。
「自治会に入りませんか」と言うと、「法律で入れと決まっているのか」と叱られたりする。確かに自由なんですが、法律に書いてないと何もする必要がないというのも困ったものです。
法律的には、悪いことさえしなければ、後は自由なんです。ただし、権利の濫用とか公共の福祉に反することは許されないと明記されています。自由にも制限がある。
自由とか権利を明文化しようとしたら、大まかにはこうなるでしょう。細かいところは微妙だから明文化できないので。
言論の自由を武器にマスコミやSNSの発信力が大きくなってきており、マスコミ受けする限られた知識人が偏った情報を流す機会を得ている。
ものすごい影響力です。扇動的、分断的な意見も多い。多いように見えるが、実は一部。少なくても多いような錯覚が生じてしまうから恐い。

法律は平時の時のものと私は思っています。余裕があるから機能していると。
戦争のような危機になると、現行の法律なんか、邪魔になって無視されるでしょうし。
戦争時に戦争反対とか言うと、非国民と呼ばれて処罰されるだけ。
戦争は国が発動するので、その時点では、まだ、国の権力は残っています。
最も恐いのは、国に対する信用がなくなった時。何の統率も効かず、無秩序と混乱しかない。
混乱時には、カリスマ的な英雄を求める機運が生じる。だから、出てくるんです。

天皇制は、日本の秩序を保つ上で、長い歴史において、非常に役に立っていたと思います。今となっては過去のものですが。
それにとって代わる信頼すべきものが現在ないんです。国民主権になったから。
個人個人はまとまりにくいんです。一人一人が天皇のようになってしまうので。

今、一生懸命、憲法改正と叫ばれていますが、まだ平和であることの証です。
最悪の危機には、憲法も法律も役に立ちません。自分で自分を守る以外ない。
例えば、地震とか津波が起きたら、信号の赤とか青とか関係なくなる。
逃げるのが必至で、赤でも渡らないといけない時があり、青でも止まらなければいけない時もある。その時の状況で判断する以外ないんです。
赤や青より命が大事だからです。当たり前ですが。
ギリギリの状態においては、法律が一番じゃなくなるんです。
法律が一番だと思っていると、大怪我をします。決め事や勉強やお遊びも余裕があってのことなんです。余裕がなくなった時こそ、その人の力が試される。本性が暴かれる。
一番大事なのは命です。これは平時でも同じです。青信号で渡っていても、突っ込んでくる車もあります。ルールは大事ですが、一番ではない。想定外は頻繁に起きます。

自由や人権が法律で定められている?
そんな馬鹿な。
自由を主張して不自由になり、権利を主張して権利が蹂躙される。自由と権利が対立しているではないですか。
これは、自明なことです。
自由や権利とか美しい言葉を使っている人ほど、その言葉に陶酔している気がします。
自由や権利を勝手に与えてくれるなと思う。権利に胡坐をかいている。
与えると、それを主張して攻撃する人が増えてくる。戦う武器を持つ戦士になってしまう。
個人主義は聞こえはいいが、矛盾に満ちている。それが今表面化している。
自由と権利が、世界を分断している。そのように思えてならない。
人は本質的に、ルールに規制されない自由さを持っている。これは知識では及ばない。

〇〇ハラとか、細かく定められてくると、何をどうしていいのか混乱します。
相手と恐くてしゃべれなくなってしまう。自由がなくなってしまう。
しかし、〇〇ハラの内容を細かく知らないと、お前は常識がないと言われる。
しかし、実際のところ知らない人の方が多いのでは。
つまり、常識のない人の方が多い。常識のない人の方が多いのなら、そっちが常識ではないのでしょうか。
決めたことで、自分の首を縛っている。良かれと思って決めたことが自分に跳ね返ってくる。
自分で考えるのが面倒なので、顧問弁護士に頼ってしまう。だから、弁護士ばかり増える。
問題が起きるたびに法律が増えてくる。もはや専門家以外誰も知るものはいない。
専門家じゃないと判断できないという現状っておかしくないですか?これも分業なの?
それとも、国民にもっと勉強しろということですか。主権者の義務なんですか?

仲直りできるようなことでも、弁護士を付けると、仲直りできなくなることが多い。
法律上の和解が成立したとしても、仲直りは難しい。
仲直りを優先して、互いに傷つけあうことは、避けた方がいいと思います。
裁判で勝ったものが正しく、負けたものが悪いとされますが、これも本当のところは曖昧です。白黒を決められないところがある。
強い弁護士がつくと勝ち、弱い弁護士だと負ける、こんなこと本当にあるのですか? お金次第で判決って変わるんですか?

法律が定められると、それに従わないといけない。
ところが、その法律を知っている人は知識人。たくさん法律がありすぎます。
罰せられて初めて、その法律に気付く人もあるでしょう。
法は国の権力のよって定められるもの。私個人が賛成したものではない。
これには反論が多いと思いますが、実際にはそう。
国に属したら、否応なしに守らないといけない。それが法治国家。
ものごとの正当性は法律によって担保されるのが今の社会です。
悪賢い人は秘書とか裏の人に悪いことをさせて、自分は直接手を出さないようにします。
まあ、普通に行動していれば、法律に反することはそんなにないとは思いますが。
国が権力を保てるのは、主権者である国民が国に対する信頼があってのことです。
肝心の国民同士が言い争っている状況では、それを反映して、国の方向も定まりにくくなってしまいます。中途半端で場当たり的にならざるを得ない。

共同体の最小単位は家族です。
家族内では、特別なルールはない。絆が深いので、特に必要ないんです。
家族よりも大きな共同体が生まれるのは、その方が家族の利益と安全が守られるからです。
そのためにルールが定められる。年貢も納めないといけない。
国にいて、利益と安全が守られなければ、その国に属している意味も無くなるんです。
ひどくなると、自分の家族を守るだけで精一杯という事態も起き得ます。
とは言え、自分の家族が大事だという原点に戻っただけのことなんですが。
国がいつも守ってくれるというような甘い幻想をいつまでも抱かないことです。
多くの制度がつくられていますが、人のつくったものは壊れる時が来るんです。
その時、あなたならどうしますか?

混乱


この世では、
いい時もあれば悪い時もある。
出来る時もあれば、出来ない時もある。
静かな時もあれば、騒がしい時もある。

ところが、
いつの時も、悪いもの、出来ないもの、騒がしいものは、常に内在している。
いい時の後に悪い時が来るという風に、私達は時間差でもって捉えていますが、実際には、そうではなく、常にそうなんです。

この世の本質は、混乱。混沌。そして、苦難。
見えないのか、見ようとしないのか、混乱はマグマのようにあります。
マグマが噴き出すと分かるが、噴き出さないと気づかない。
マグマは常にあります。
私達は、今の混乱を見て、慌てふためくが、混乱は最初からあります。
単に隠れていたものが、明らかにされたに過ぎない。
自ら、臭いものに蓋をして、見ないようにしている。
しかし、蓋が外れると、見たくなくても見ざるを得なくなる。
時を通して見ていますが、それは、時とは関係なしに、いつもある。

混乱は、大元の混沌から来ている。
「何も知らない」という根幹からきている。
「知っている」と語るから、「何も知らない」ことを知らしめられる。
この世の誤りを正そうと働いている。私達が目覚めるために。
闇は深すぎる。

もし光がなければ、どれほど暗いことでしょう。
光はいつも闇を照らしています。しかし、人は光より闇を好んだ。
それ故、見ていても見えず、聞いていても聞こえない。
光があるうちに、光の方へ進もう。
この世に勝つために。

母の死

人が人を理解することなど不可能です。たとえ、自分の子であっても。

私の母は今年に亡くなりました。
母は認知症がひどかった。度々注意しても、反発ばかりで殆ど意味がなかった。
叱るのではなく、「やさしく笑いながら、こうしようね」ともっていくほかなかった。
頭とか理屈は、ほとんど役に立たないと知った。
強靭な愛でもってしか勝てない、通じ合えないと。
自分のことなど捨ててかからないと相手には通じない。全てにおいてそうなんです。
「相手を理解することができる」ということは、とんでもない錯覚で、傲慢でしかない。
頭は本当に役に立たないんです。ろくなことしか考えない。

母に昔の童謡の歌を聞かせると、楽しく歌いだすんです。殆ど忘れているのに。
童謡のCDを購入して、枕もとで一緒に歌うようにしていました。
亡くなる少し前は、歌を聞かせると、唇がかすかに動いていました。確かに歌っているんです。声は出ませんが。
歌が好きなんです。目が開かず、声も出ないが、耳は聞こえるのです。顔は動かなくても喜んでいるのです。

母が亡くなった直後にも、私が「どんぐりころころ」と歌って聞かせました。
口も目も顔も全く動きませんでしたが、それでも、母が今歌っているなと感じました。

違いを超えて


誰かが何か語ると、それは善くにもとられたり、悪くにもとられたりします。
この世では、100%正しい、100%間違いというのはないからです。
だから、どちらかに決めてしまうと、かえって対立を生むだけなんです。
一方に傾くと、一方が反発する。シーソーのようなものです。
バランスをとるのが難しい。なので、決めつけないことです。
中途半端に頭がいい人ほど勝手に決めつけて、人を惑わしている。
論理的で分かりやすいものには、騙されやすい。単純化が誤解を招く。
この世は、AかBかではなく、AでもありBでもあるような世界です。
知識は、切り分けたり、分断したがる傾向を持つ。踏み絵のように。
白か黒かではないんですが、どうしても白と黒に分けたがるんです。
ある方位から見るとそう見えても、別の方位から見るとそう見えなかったりするもの。全方位から見ることは殆ど不可能に近いんです。

AとBの「間」にこそ真理が隠されている。融通無碍なんです。
ここを見ないと、「間」違うし、「間」抜けになります。

理解するために、人は言葉を与えられて、生きている。
ところが、今や、言葉によって誤解を招いている。

違いは、違いを超えたものを理解するために用意されている。
違いが違いだけに留まるなら、この世に生まれた意味がない。
ましてや、違いが差別に変わるとなると、最悪です。
世界の中にいるのに、その世界を否定している。
だから、返される。自分の語る言葉でもって、自分に返される。

心無い言葉が対立を生む。
心無いとは、愛がないからです。
真の愛は、逃げもしないし、自分の死をも恐れない。
この世では、言葉に愛がない。空虚な言葉だけが飛び交っている。
自分を守ることだけを思っている。散らすだけで集めようとしない。
どんな知識も愛には勝てない。知識は当てにならない。

この愛はとても難しい。だから、この世の苦難は簡単にはなくならない。

強い者と弱い者


元々、強いものもあれば、弱いものもあります。
「もの」もそうだし、「人」もそうです。
多様性として、事実として、あるんです。

最初の頃は、強いものも弱いものも一緒に仲良く遊んでいた。
ところが、一緒に遊んでいると、あいつは強い、自分は弱いと比較するようになってきます。
まだ、この段階では、違いを知っただけで、差別には至らない。理解として留まっている。

しかし、強いものが、強いものだと知って、優越感を抱く時があります。
弱いものが弱いものだと知って、劣等感を抱く時があります。
この瞬間、差別が生まれる。違いが差別に変わる。
(※差別という言葉は、元々「違い」という意味で使われていたんです)
そして、強いものを褒めたたえる環境がこれに拍車をかけていく。強いものが偉いものとなる。

強いものは自分の努力で強くなったのだと言い、努力しないお前たちが悪いのだと言うようになる。
努力して強くなったのだから、それだけの報酬や権威を得て当然だと主張します。
劣等感を抱いたものは、相手から遠ざかるようになる。自分よりもっと弱いものを探そうとします。少しでも優越意識が欲しいからです。
傲慢と卑屈が対峙する。支配と被支配は、心において生じる。
こうして、互いに楽しく遊んでいた子供の頃が終わりを告げる。

強いものと弱い者の差別が生じると、大体半々の勢力に分かれます。
強いものと弱いものとは、主張が折り合わない。
口では格好良く平等を叫んでも、根底に差別意識があるので解決は難しい。
この意識は小手先の方法で変えられない。根深すぎる。
そもそも、弱肉強食という土台の上に平等なんか築けないんです。

水は高いところから低いところに流れます。
この自然な流れが滞ると、おかしくなってしまう。

もう一度、あの頃の自分に戻れないのだろうか?
何も知らなければよかったのだろうか?

一寸先は闇

一寸先は闇


大変な事故や災害に会った時などには、「一寸先は闇だ」と痛感します。
ただ、その時はそう思いますが、状況が回復すると、鈍感になってしまう。
「一寸先は闇」といつも思っていたら、何もできなくなるからです。
理屈や知識よりも、今を生きていく力の方が圧倒的に強い。
いつ起きるか分からないことについては、それほど気にしないようにできている。
毎日、習慣で反応していることが多いので、非日常なことが起きると、どうしてもパニックになってしまいます。

「一寸先は闇」も含め、一瞬先はいつも分からないものです。
今の一瞬はこうでも、次の瞬間はどうなるか分からないというのが、現実です。
これが人の置かれた状況です。頭の中では。
そして、そのことをいちいち考えないで生きているというのも現実です。
死ぬと知っていても、死ぬことをそれほど意識せずに生きているのと同じです。
肉意識・知識として死を恐れる部分とそうでない無頓着な部分とが共存しています。
ある程度、無頓着でなければ、生活できません。
知識や理屈通りに人が動いているわけではないんです。知らなくても動けるんです。
もし、知識や理屈が優先されたなら、逆にぎこちない動きになって、病気になってしまいます。知識は本当に恐いんです。

人は「一寸先は闇」とか「こんな不条理」とか言いますが、実際には、特別な時に限らず、常時そういうことは起きています。
目立たないから気づきにくいだけです。それを不条理と言うなら、すべて不条理になってしまいます。
人の言う条理・不条理なんて、人が勝手に考えて、勝手に判断基準にしているだけです。
一匹の蟻だって、明日は人の足で踏みつぶされるかもしれないが、今を必死に生きている。人も同じです。

戦争で次々と人が亡くなるのが、当たり前だと、生きていることの方が奇跡になってしまう。
人の言う不条理が当たり前になってしまうと、条理になる。
それを思うと、「今生きていることが奇跡」というのが、より真実に近いように思えてきます。
今、この時以上に大事なものは無い。次の瞬間はないかもしれない。

死など考えずに、無頓着に生きている方が幸せなんです。死は知識によるものですから。

百聞は一見に如かず


ネットやニュースなどは百聞です。実際に見たわけではないので。
百聞は当てにならない。実際にそこに行って、そこで見てみないと分からない。
外から見ないで批判することは簡単ですが、そこに行って実際に見てみると、そう簡単でないことがよく分かる。
あんなのおかしいやと批判している人が、そこに行ったら、真っ先に同じことをしていることもある。
こんなことはよくあります。

昔の時代を批判するのも同じです。もし、その時代に連れて行ったら同じことをするに違いない。
私は今ここにいて、見ています。それ以外は百聞なんです。当てにならない。
過去も未来も関係ないんです。知らないんだから。見ていないんだから。

いつも自分は正しいと思っておらえる方、百聞で判断していませんか?
体験は知識に勝る。
いいとか悪いとか関係なしに、あの時、あの場所においては、そうせざるを得ないような状況になっていることが非常に多いんです。
そう思うと、いいとか、悪いとかの批評なんて、簡単にできることではないんです。

いくらたくさんの情報を収集しても、やはり「百聞は一見に如かず」ですね。

間を見る


客観的に語られる人は、理知的に見えがちです。
しかし、客観化すると、自分とはちょっと切り離してしまうところがある。
なので、非常に冷たい気がしたりする。
理知的な人は冷めている感じがしますが、そのためです。

客観的であればあるほど、対象を「全く別なもの」として捉えてしまう。
石ころを見るように。
ここで、冷たさが生じる。知の恐い部分です。

数字もそうです。
最近、コロナで死亡率とかが語られますが、なんとなく冷たい気がします。
他の国と比べて、我が国の死亡率が低いと、何か喜んでいいみたいな雰囲気が醸し出される。数字の魔術に引っ掛かる。
生きている人にとって、死んだ人や被害者は、悲しいかな、客観的な出来事になってしまう。
これは、互いに直接のかかわりが少ないから、感情移入が起きにくいからです。

厳密に言うなら、自分の死でさえ、死ぬ瞬間までは客観です。思考は客観的に捉えて加工する働きをする。自分の死を直接捉えられない。

他者のことを可哀想と言っても、どれぐらい本気でそう思って言っているのか疑問なんです。
死亡率が悪いのであれば、絶対数ならいいのではないかと思えますが、そうでもない。
数字は抽象的で、心が入っていない。やはり、冷たいんです。

基本的に、知らない他人に対しては冷たい。距離があります。
この世では、これが当たり前なんです。
世界の不幸を全部背負っていたら生きていけません。
かかわりが少ないのに親しみを持てと言われても、現実的にできない。

やはり、近場の人とかかわるのが一番です。今のこの場所が大事です。
今ここでしていることが、明日や世界につながるからです。
ネットだけで、遠くの知らない人とかかわっても、夢の世界にいるようなもの。
自分の近場の人を大事にすることで十分なんです。
別に国際的である必要はない。恰好を付ける必要もない。仮想の世界に入る必要もない。
友達同士間なら、そんな率や数字などいりません。互いに喜び悲しみあうだけです。
そこでは、私とあなたの間の壁が崩れ、一つになれる。もはや他人と言えない。

主体は客体に働きかけて、生きている。
しかし、同時に、客体も主体に働きかけています。
主体と客体に分けて語りますが、主体と客体は、一つとしてつながっている。

人間という漢字には、「間」があります。
大事なのは、その間なんです。間を切り裂いてはいけない。
間をなくしたら、ただの空間で区切られた肉でしかないんです。

鏡を磨く

鏡は不思議です。
私が鏡を見ると、そこに映っているのが私の姿だと知っています。
映像を通して自分を見ている。
至極当たり前に思っていますが、何故か人の場合、映っているのは他人であるとか別のものだとは思わない。
映っているのは、正確に言うと、私ではなく私の映像です。なので、必ずしも私と私の映像は完全一致するものではありません。
映像を見ることで、自分の顔はこんなんだと知ります。
もし鏡がぼやけていたら、ぼやけて映し出された顔が自分の顔だと信じてしまうでしょう。
澄んだ鏡ほどはっきりと自分を映し出してくれる。

目や耳は鏡のようなものです。
澄んだ目や耳があれば、はっきり見えるからです。
濁った眼や耳では、濁ったものしか見えない。

世界は映像のようなものです。
光があって見えている。
目や耳が澄んでいるか濁っているかで、見える世界(映像)も変わります。
鏡を磨いて綺麗にすることが大事です。
そうすれば、はっきり見えるようになる。
鏡を磨こう。

トランプ氏の言葉

今日、国際ジャーナリスト高橋浩祐氏のYahoo!ニュースの記事
トランプ大統領の虚偽情報に最後の最後まで踊らされ続ける支持者
を読みました。

この中で、トランプ大統領が自伝の中で述べられたことが引用されていた。
マスコミの特徴について、ある程度、皆さんも感じておられると思いますが、トランプ氏自身がそれについて分かりやすく解説されておられたので取り上げてみました。
  ※私自身は自伝を読んでいません。また読みです。

トランプ氏の発言として以下の4つが書かれていた。

  1. 「マスコミについて私が学んだのは、彼らはいつも記事に飢えており、センセーショナルな話ほど受けるということだ」
  2. 「要するに人と違ったり、少々出しゃばったり、大胆なことや物議をかもすようなことをすれば、マスコミがとりあげてくれるということだ」
  3. 「私はマスコミの寵児というわけではない。いいことも書かれるし、悪いことも書かれる。だがビジネスという見地からすると、マスコミに書かれるということにはマイナス面よりプラス面のほうがずっと多い」
  4. 「宣伝の最後の仕上げははったりである。人びとの夢をかきたてるのだ。人は自分では大きく考えないかもしれないが、大きく考える人を見ると興奮する。だからある程度の誇張は望ましい。これ以上大きく、豪華で、素晴らしいものはない、と人びとは思いたいのだ。私はこれを真実の誇張と呼ぶ。これは罪のないホラであり、きわめて効果的な宣伝方法である」

今の日本もそうですが、マスコミの特徴をよく捉えていますね。
Yahoo!ニュースで取り上げられる記事もそうですが、視聴率重視だと、そうなります。
今は何でも、ビジネスベースで事が進む時代ですし。自分とこが儲かればいいんですから。
これを変えるというのは簡単ではない。時代を変えることになってしまいます。
今や、普通の記事、普通の話し方、普通の格好、普通の行動では、スポットがあたらないんです。
スポットがあてられれば、ビジネスだけでなく、政治家にもなれてしまう。
突飛なものを追い求めている。だから、突飛なことをする人が増えてくる。
ネットは宣伝の手段でしかないのだろうか?
このパフォーマンスが受けるとか、「受け」ばかり狙うようになっている。
視聴者にもそれを求めるところがあります。目立つものには興味を示すから。
「通常」「普通」が、なんかよくないみたいに感じてしまう。
甘いものばかり食べていると、通常の味に満足しなくなることがあるように。
突飛なものというのは本来珍しいものですが、突飛なものがより突飛なものを生んで、溢れてきています。

発言の中にある「真実の誇張、罪のないホラ」かどうかは、異論があるでしょう。
特にマスコミの方々には、よく読んでいただきたいものです。
また、読者も騙されないように十分注意してください。

事実と判断

事実について

事実を言葉で表現した瞬間、事実から離れてしまう。
これは臭いや味を人に説明するのと似ている。
臭いや味を人に正確に伝えることはできない。「たとえ」を用いるしかない。
あの食べ物の味やあの匂いと似ているという風に。
言葉で正確に伝えることはできない。
事実について、これはこうだった、あれはこうだったとか色々と細かく説明しないと、相手に伝わらないが、全部捉えることは難しい。必ず漏れる。
その結果、一部だけが強調されてしまうことになる。これが恐い。
その瞬間においては事実の中にいるのですが、それを言葉で説明すると、説明しきれない。
事実というのは、その瞬間にしかない。後で語れない。
事実とはそんなもの。その時だけのものなのです。

判断について

不確かな事実を土台にして、どうすべきかの判断がなされます。
事実の捉え方によって判断が変わることがあります。
同じ事実認識であっても判断が異なる場合もあります。
個人差がある。
確かな判断というものはない。

事実で確かなものは無く、判断で確かなものは無い。
人の語る事実も判断も当てにならない。
そして、その不確かな事実や判断と行為が、自分に返ってくる。因果応報です。
思考の世界は、事実とは別世界。
人は考える動物であると言われています。言われてみれば、今の私もそうです。

しかし、考えなくても、瞬間、瞬間、生きていけるような気がする。
人は瞬間、瞬間に生きるのだと。
余計なことを考えず、考えること以前においてのみ、確かに生きれるものだと感じている。