あなたは試されている


ギリギリになった時に、人は試される。
そこでは、本音しか出てこない。
今迄、臭いものに蓋をし、格好をつけて生きてきたが、その蓋が全部剥がされてしまう。
もう逃げ道がない。
その時、あなたなら、どうする?
そこで試される。

「生か死か」のようなギリギリの時もそうですが、その時になったら、実際どうするのかは予測なんかできない。
平常時に頭で考えていた思いや希望は、ことごとく打ち砕かれるだろう。
戦争は戦争に行ったものでないと分からない。平常時と全てが逆転します。
平常時の考えは、あくまで平常時においてのみ考えられる考えなのです。
考える力というのも、徐々に衰えてきますし、考えも移りやすい。
一点にいて、全ての動くものを客観的に捉えていると思っているが、自分も動いている。
浅はかな考えと言いますが、考えに頼ることが既に浅はかなのです。
通常思うことは、単に思うことで留まっているだけ。深さがない。根っこまで届いていない。
ギリギリの時には役に立たない。
だから、試される。

土壇場では、あたふたするしかない。これこそ、人間が置かれた本来の状況です。
人の頭も知識も全く役に立たない。この時に至って、初めて分かる。
思い通りにいかないことは頭で知っていても、それが本当に分かるのは、この時です。
いかに飾りもので生きてきたことか。まるで夢や幻の中で生きてきたかのようです。
もう、この時になって気付いても遅いでしょう。

綺麗ごとがすべて剥がされた後でも、美しいものを見れる人は幸せです。
その人だけは、あたふたしない。
その人は死に打ち勝っている。死なない。

実を言うと、人はいつも試されているし、その報いも受けています。
見たくないものは、見ないよう蓋をしているので、気づかないだけ。
本当の自分を見たくないんです。非力で劣った自分を見たくないんです。
傲慢なんです。
非力で劣っているのが、人間なんです。
この事実を何故認めようとしないのか。

自己免疫力をフル活用して勝とう!

ここで言う「自己免疫力」とは、今現在持ち合わせている自分の免疫力と万一コロナに感染した場合に得られる免疫力の二つです。
この二つの免疫力を生かせば、基本、風邪と同じような対処の仕方でいいのではないかという趣旨で書きました。
当然、重症化した場合は、この限りではないが。
(前回「自然免疫」という言葉を誤解して使用していたので修正しました)

新宿発、歌舞伎町発、夜の街発、三密店発の「新宿歌舞伎町コロナ」が、全国に飛び火して蔓延してきている。
「懸念しています」「気をつけましょう」では、感染拡大を止めることはできない。
東京、愛知、福岡などで、3~4日間で感染者が倍増しているのは、検査の網に引っかからない無症状の隠れ感染者が相当いるからです。

今回のコロナでは、無症状の方が非常に多いので、網で捕らえることが難しく、感染が広がりやすい。PCR検査の効果も限定的。
このままでは、ホテルも足りなくなるだろう。
果たして、無症状者や軽症者を隔離や入院させる必要があるのだろうか?
病院は重症者のために空けておくべきではないのだろうか?

今や、放ったらかし状態で、「集団免疫」に移行したかのようです。
誰もそのことを公言しませんが。

今回のコロナは毒性が弱く、重症化する割合が少ないこと、今既に感染が市中に蔓延していることを考え合わせると、今や自分の免疫力で対応するしかないと思っています。
逆転の発想で。
重症率が少ない今しかできない。ピンチをチャンスに変えるには、自己免疫機能を最大限活用するしかない。

つまり、
思い切って、風邪と同じような対応方針に切り替えてみることです。
元気な感染者は、自宅療養していただくことで、病院では、重症者または、重症化しやすい人に集中して治療することができます。

いったん抑え込んでも、また広がります。抑え込むのに負担がかかるし、疲れと不安が増大するだけ。今となっては、無駄な気がします。
ワクチンを待っていても、いつできるのかさえ分からない状況です。

【自己免疫重視の体制】

基本は風邪と同じような扱いとする。風邪より少し注意が必要ですが。
 1.学校内で感染者が増えれば、学級閉鎖とする。
 2.熱のある人は自宅療養でも構わない。
 3.PCR検査は最低限でいい。蔓延時においては追跡効果が弱い。
 4.症状のひどい人や高齢者に限って、隔離や入院をさせればいい。
 5.元気な患者は自宅療養にする。隔離も入院もさせない。
 6.重症化しそうな人だけを早期に、優先的に病院で治療する。
 7.老人施設や病院関係者への感染を防ぐためのPCR検査は必要。

別に感染拡大を奨励しているわけではありません。誤解がないように。
感染しないよう、うつさないよう注意するのは当然です。病気なんですから。

もうここまできたら、自己免疫力に頼るしかないなというのが、私の率直な感想。
歌舞伎町を、最初に抑えて欲しかったという悔しい思いがあったが、後の祭り。
感染者数の多さにうろたえないことです。
自分で防御するしかないが、万一感染しても、それほど心配することはない。

前回と頭を完全に切り替えないといけない。前回よりコロナの毒性が弱くなっているからです。コロナにもライフサイクルや環境適応性のようなものがあるのかも?
前回の経験が役立つこともありますが、逆に弊害になることもあります。
気を付けるのは当然ですが、恐れることはない。

反発を受けることを覚悟して書きました。まったく個人的な意見なので、無視してもらって結構です。

自分のことは自分で守る

誰かに助けてもらえると思うなかれ。

国や自治体や他人とかにあまり期待しないこと。

何故かというと、自分のことを他の人はそれほど大事に思っていないから。

「人の命は地球より重い」と言いますが、それは自分の命のことであって、他人の命についてはそれほど思っていない。欺瞞に満ちた、美化された言葉です。
建前と本音とは異なっています。言っていることとしていることが違います。

事故や不幸が起きた後では、周りの人がこうすべきだったとかよく言われるが、それは起きてしまった後のこと。
起きた後、結果が出た後で、どうすべきだったとかの話が出る。しかし、時間は戻せない。
事故や不幸は、あまりにも突然やってくるので、防ぐすべは殆ど無い。事前に注意して防ぐことができる場合というのは僅かでしょう。
「君子危うきに近寄らず」です。それでも防げないことはたくさんある。その時にじたばたしても始まらない。心の準備をしておくべき。その時になって、誰かを恨むことなかれ。
これが現実です。
そして、災害や病気はがなくなることはない。戦争も然り。

後になってから、こうしておけばよかったというのは、色々言えます。
死んだら惜しまれることもあるかもしれないが、たとえどんなに惜しまれても生き返ることはできません。
生前、あまり好かれていなくても、死んだ時には、その時だけは、一応惜しんでもらえるかもしれない。
死んだら忘れ去られるのも早い。この世は生きている者の世界で、死んだ人はすぐ忘れ去られます。
少し経てば、そんな人いたかなという感じです。自分と他人とは完ぺきに分かれている。
「どうせ人は死ぬんだから」で最後は割り切られてしまう。なのに、自分の死だけは割り切ろうとしないんです。
自分のことなど、他人はそれほど大事だとは思っていない。恋人や家族は別ですが。
自分では自分をそれなりに評価、自負するが、他人はそんなこと知ったことではない。その他大勢にすぎない。勘違いしないこと。
非人情で冷たいことを言うようですが、これがこの世です。現実を見ず、夢や妄想を抱くのは自由ですが。
いくら防災や治療がすすんでも、この事実は変わらない。

他人や国や病院などにあまり期待しない方がいい。もちろん、事後に救ってもらえたら有難いし、感謝すべきです。
しかし、事前に期待しないこと。
あくまで、「自分のことは自分で守る」が鉄則。誰かに期待しない。
「助けてくれて当然ではないか」と言いたいでしょうが、これは、おまけ程度に思うべし。

本気で助けようと思う人は稀。そういう人に出くわすことも稀。これが現実。

蓋がとれて臭いものが現れ、疑心暗鬼が生じる。
分裂が生まれ、攻撃が起きるが、これは人の本性が露にされただけ。
臭いものは最初からあった。
自分で問題を先送りにしていただけ。危機は最初から自分の中に内包されていた。

「臭いもの」とは、「自分を守る」ということにあった。
守るから攻撃される。守らなければ、守られる。

感染すれど重症化せず


正確に言うと、感染しても重症化する割合が非常に少ない。
これが、今回のウィルスの特徴のようです。
病院の受け入れ体制が整ってきたからだ、という理由ではない。
この事実を公に言うと、コロナを軽視しているかのようにとられかねないので、言い出しにくいところがあります。
上層部もそれを知ってか、対策がのらりくらりしている感じがします。

ウィルスの毒性が弱まったのか、人の免疫力がアップしたのか、それとも両方なのか。
どちらにしても、前回とはかなり状況が違ってきている。
現在の日本に限っては、そう思います。他の国のことは知らないが。

もし、これが本当なら、通常の風邪と同じく、熱などがある発症者だけを確実に治療して、教室で感染が増えたら学級閉鎖すればよいということになります。

重要なことは、重症化する可能性のある人については、素早く入院させること。
そして、老人施設や病院では、全員の体温管理や健康管理を徹底させることが大事です。
最も心配なのは、医療従事者の感染が増えてきて、病院の通常業務に支障をきたすことです。
感染者がどんどん増えてくると、軽症者は入院や隔離ではなく、自宅療養を余儀なくされるでしょう。風邪と同じように。

前回の恐さが強く頭に残っているので、現在の感染者数の多さを見ると、どうしても過敏に反応してしまいますが、過度に恐れる必要はないと思っています。
ただ、人にうつさないように心掛けるというのは当たり前のことです。
PCR検査は、クラスタが少ない時には有効ですが、爆発が続いて、検査よりも感染速度の方が速くなると、効果は限定されます。
今回は、ウィルスに裏をかかれたな、という感じです。多く広がるが、少し弱い。

「withコロナ」とは、一体何のことだったんだろうか?
コロナウィルスが、「with people」と言っているような気がします。

以上、ここで書いたことは私見です。きっと、考えが甘いと批判されるでしょうね。

ロリポップのライトプランでMySQL5.6にバージョンアップ

ロリポップのデータベース画面


ロリポップの「ライトプラン」契約をしてWordPressを利用されている方が、mySQLのバージョンを5.1から5.6にアップする方法について書いてみました。

【必読サイト】
ロリポップサーバー ライトプランのデータベースをMySQL5.6にアップデートする方法

上記サイトに詳しく書かれています。画像が分かりやすい。是非お読みください。

私はこのサイトの存在を知らなかったので、別の複数サイトを参考にしてアップデートを行いました。
私が行ったやり方と上記サイトのkazutoyoさんのやり方を比べると、違うところが2点ありました。

1.エクスポート時の生成オプションの追加コマンドで、「DROP TABLE /View・・・・・コマンドを追加する」にチェックを入れたのは同じですが、私の場合、「CREATE ・DATABASE /USEコマンドを追加する」にはチェックを入れなかった。

2.私の場合、エクスポートしたファイル名を変更しないままでインポートした。
 インポート時にエラーが出てびっくりしたが、もう一回、何も変更しないでインポートを試みたらと成功しました。
ファイル名を変えなかったためにエラーが出たのかもしれませんが、同じ操作を繰り返しただけで成功した理由は分からない。

この作業は、WordPressダッシュボードのサイトヘルスステータスで、mySQLのバージョンアップを行うように指摘されたことによるものです。

ロリポップのライトプランでは、データベースが一つしか使用できません。
なので、ライトプランでは、既存の5.1を削除してから、5.6を作るしか方法がないんです。

そのために最も重要なことは、最初に、既存のデータベースを正しくエクスポート(バックアップ)してから作業を行うことです。

私の場合、あまりに恐かったので、念のためにダッシュボー上で投稿記事をエクスポートしてから行いました。
失敗して投稿記事が全部吹っ飛んでしまうと恐いので、しばらく5.1のままで放っておいたんですが、今回思い切ってバージョンアップしてみた。

事前にネットでやり方の情報を収集して、ある程度理解したうえで行わないと失敗します。
初めてだと覚悟がいります。
私も不安だったので、ダッシュボードのエクスポート機能を利用して、投稿、ギャラリーやニュースのバックアップをしてから行いました。
概要が理解できない方は、誰か知っている人に助けてもらうか、やめておいた方がいいと思います。

ライトプランの方がデータベースバージョンを5.1から5.6にアップするには、
ロリポップの「phpMyAdmin」から下記の作業をすることが必要です。

  1. 「phpMyAdmin」を開いて、既存のデータベースをSQLファイルとしてエクスポート(バックアップ)しておく。
    ここで重要なのは、以下の2点。
    ★エクスポートの方法で、「詳細ー可能なオプションをすべて表示する」にチェックを入れる。
    ★追加コマンドで、「DROP TABLE /View・・・・・コマンドを追加する」にチェックを入れる。
  2. その後、既存のデータベースを削除する。
  3. 新規にデータベースを作成します。5.6用のサーバーが表示されていることを確認して、そこに新たなデータベース名パスワードユーザー名ホスト名の4項目を指定します。
  4. 新たに作成したデータベースに、最初にエクスポートしたSQLファイルをインポートする。
  5. 最後に、「ロリポップFTP」を利用して、「WordPressのwp-config.php」を編集します。
    「DB>NAME」(データベース名)、「 DB_USER 」(ユーザー名)、「DB_PASSWORD」(パスワード)、「 DB_HOST」(ホスト名)の4項目の右側部分を上記3.に合わせて修正する。
    (私は心配だったので、事前に「wp-config.php」をダウンロードしておきました)
    修正するには、「編集可」にチェックを入れ、「保存」ボタンをクリックしてから行ってください。
    修正が終わったら、「編集可」のチェックを必ず外しておいてください。

田舎と都会のコロナ意識


今のところ、コロナ感染を完全に防ぐことはできません。
なので、現在は、医療体制を万全にして、重症者があふれて医療崩壊を招かない範囲で、経済活動を維持していこうとしています。
しかし、放っておくと、感染者は確実に増えていく。今のところ重症者・死者の数は少ないが、爆発が重なると、コントロール不能に陥り、検査すら役に立たなくなります。
「重症者の数が少ないから、たとえ感染者の数が多くても問題はない」という考え方は結果論であって、明日を決めるものでない。

感染を広げない意識や行動は、コントロール不能に陥る前の今の段階でこそ必要。
制御不能になってしまうと、いくら対策を施しても、もはや後の祭りです。
PCR検査より感染のスピードが速いと、検査の意味も無くなってしまう。

宣言解除後は、医療関係者に頼り切っている感じがしないでもない。
三密回避はどこにいったやら。喉元過ぎればなんとやらです。専門家会議はどこに?
テレビやマスコミで危機を煽られ、悲惨を目のあたりにしないと、本気で自粛しようとしない。せっかく学んでもすぐ忘れてしまう。

自己責任とか自由という言葉の意味は、人によって捉え方が異なるため、誤解を生みやすい。田舎と都会を比較して書いてみた。分かりやすくするために少し誇張して書いています。

地方の本音君が言った。
東京は東京でちゃんと解決して欲しい。地方にコロナをばらまいてくれるな!
東京の人はこちらに来ないでほしい。

建前君が言った。
地方の人が東京の人を来ないでと言うのは、差別だ。
東京の人がみんなコロナに感染しているわけじゃないし、かかりたくてかかっているわけじゃない。
誰だってかかる可能性があるんだ。責任なんか一切ない。日本を分けるな!プライバシーを守れ!

本音と建て前

コロナの感染拡大を抑えるという点では、本音君の意見の方が役に立つ。
各人の自粛によって防げるなら、それに越したことはない。自己調整機能で。
ただ、自粛しない人が増えてくると、癌化してきます。すると、自律回復が難しくなり、強制治療しかなくなる。
癌化して、自己治癒力で直せない場合、手術が必要となる。手術が遅れたら手遅れとなる。
自由やプライバシーなどと言っている場合でなくなる。癌が全体を侵してきたら。

憲法12条には、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とある。
公共の福祉のための自由の制限は認められています。

「自由の制限」と捉えるのではなく、本来の自由というのはそういうものなんです。
自由とは、「心の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず」(孔子)に近い。
自分勝手とは異なります。

決して地方の人が東京の人を差別している(見下している)ということではない。
コロナウィルスがどこにいるのか判別できない現状において、東京に感染者が多いのは確かなんだから、大雑把に東京の人を避ければ、感染が防げるだろうという風に思うのは何らおかしいことでない。
もし、東京が地方であったなら、東京の人だって地方の人と同じように思うはずです。
東京の感染者がこれからどんどん増えていったら、少し抑えていた本音君の意見が再び表に噴出してくるに違いない。

いつも、危機の時は、本音君は建前君よりも強いんです。
平時は、本音をオブラートに包んで建前で生きているだけなんだから。

命は経済より大事だと騒いでいた人が、最近、その声が小さくなったのは何故でしょう。状況次第で人が変わるというより、状況次第で関心が変わっただけです。
水不足になると、水は大事だと痛感するが、水が豊富だと誰も水に関心など持たない。それと同じ。

田舎は自己責任意識が高い。

なので、自分から危険な場所には行かないし、自分達で自分を守ろうとします。
あまり、お上を当てにしたり、お上が悪いからだとか言わない。
この私も、「自分のことは自分で守る」を基本にしています。とは言え、助けていただかないといけない場合が出てくるかもしれない。その場合には感謝しかない。
自分でできることは自分で行い、自分でできない人には手を差し伸べる。これは、ごく自然なこと。
できるのにしないで、助けだけを求めるというのはおかしい。

感染するのは自分の責任だと思うぐらい、自分に厳しくしている。周りに迷惑をかけたくないからです。一概にこれが間違いだとは言えない。
良くも悪くも、田舎は世間体を気にする。世間様があって自分がいるという意識なんです。

だから、その分、東京には手厳しく言うわけです。
自分で注意していても、感染したなら仕方がないと田舎の人も思っています。
その反面、もし自分が感染したら周囲から何を言われるか分からないという恐さも感じている。

田舎で感染すると、周りにすぐに知れ渡ってしまうので、誰がどこでうつったのかすぐ分かってしまう。プライバシーもあったもんではない。お店は自ら先に公表した方が得なんです。
少しきついですが、その分可視化が進むので、感染の防御に効果がある。

東京では田舎ほどに周りを気にしないで比較的勝手に振舞える。しかも、プライバシーの主張も強い。東京と地方では、横のつながりが随分と違うんです。
田舎のように、東京も慎重にやってくれと、田舎の人は言いたいのです。

ただ、東京は個々の人がバラバラで共同体意識など育まれていません。だから、田舎と違って自律制御が難しい。世間もなければ、連携もないので。
強制的な制御しか選択肢がなくなってきます。

地方の人は都会よりも余計に気を遣うので、感染が少ないし、広がらない。まあ、クラスタになるような密な場所が少ないことも大きいが。
田舎には、村八分と似たような面もありますが、これがすべて悪いというわけではない。村の秩序を守るために必要だった部分もあると思います。
祭りや行事に参加しないといけない煩わしさとそれらに参加した時の喜び、この二つが入り混じった心境が共存しているのが現在のようです。
隣は何をする人ぞ、という都会感覚ではない。でも、少しづつ変わりつつあるのも確か。新し人(よそ者?)が入ってきて、自治会に入らない人が増えてきているし、自治会がないところもある。村意識は薄れつつある。

煩わしさを避ける傾向が高まっています。自分で放っておいてくれと言っておきながら、危機の時にはやたらに助けを求める。なんかおかしくない?

風邪をひかないためには、自分の体調管理をしっかりしないといけない。まず自己管理です。
ひいたら仕方がないですが、日頃ひかないように注意することも大事なんです。
完全に防ぐことはできないが、防ごうとしないともっとかかりやすいんです。

自己責任、自由、無責任、差別という言葉は、非常に曖昧に使用されています。だから、誤解が生まれる。
微妙なニュアンスを言葉で表現するのは難しいんです。
ここでは分かりやすくするために、田舎と東京に分けて誇張して書いています。
厳密には、田舎にも色々あるし、東京の中にも田舎部分もありますので、ひとくくりで語れません。誤解のないように。

空虚

人は、「生きる意味があるのか」とか、「生きる価値があるのか」とか考えたりします。
私はこういったことを考えること自体に意味も価値も感じない。
何故なら、そんなことを考える前に、既に生きているからです。
犬や猫や幼子などは、そんなこと考えない。しかしそれでも、生きています。
それでいい。

本当にまじめに考えたら、絶望するか死ぬかしかない。
不真面目に考えているから、何とか生きておられる。少し言い方が悪いですが。
所詮、人の考える力なんて、しれている。そう見切ることで、初めて出発点に立てる。
思考は、真実を捉えることができない。考えれば考えるほど、どつぼにはまる。
「考え」に頼って生きていてはだめ。自分の頭はそれほど賢くない。

どうしても価値が欲しいと言うのであれば、生きていること、そのままを価値として感じられるようになることだと思います。

何故、そういうことを人は考えるのかというと、元々、奥底に空虚があるからです。根幹に悲しみを持っている。欠けている。
順風な中では、生と死についてそれほど意識しません。ただ、順風でないことが多々あるので、そういう時に空虚が噴出してくるのです。
厭世感が生じて、気力がなくなったりとか、どうせ死ぬんだからと思うようになる。
自分の中にポカっと穴が開いている。その穴を埋めるために意味とか価値で埋め合わせしようと必死になっている。
ところが、それで一時的に心が安らぐことはあっても長続きしない。結局、また、元に戻ってしまう。
そうするとまた、別の何かで埋め合わせしようとする。それが欺瞞でも構わないんです。穴を埋めればいいのだから。
こうして、繰り返し繰り返し自分をだまし続けながら生きている。
そして、この世を終える。

「考え方」で空虚感はなくなりません。逆に、考えない方がまし。
私たちが通常語っている生と死は頭の中のもの。感性と思考の中にあって、考えの中で生きている。思考の産物です。
つまり、死を見て勝手に解釈し、その反対として、生を感じている。
死を知らなければ、生も知らない。知識によって死ぬのです。

死を学ばされるのは、死を超えて生きるためです。
思考以前においては、生もなければ死もないからです。生死不二。
二つに分ける意味が消失する。つまり、分けて見ているのは、分けないためです。
執着を離れるとは、このことです。
ここに至って、空虚が消え去る。穴が塞がる。「本当の命」に出会う。
空虚を学ばされるのは、まさに空虚を滅失するためです。
本当に分かるというのは、知識では無理。知識を捨てることでしか分からない。

求めるものと与えるもの

理屈以前

赤ん坊が生まれると、母親のお乳を求め、母親はそれを与える。
これは、人だけでなく、犬や猫でも同じです。
ごく自然なことで、理屈などない。

「理屈」以前にそうだからです。

不足しているものがあって、それを補おうとする働きが生じる。
その繰り返しがこの世界。それで、動いている。
水が上から下に流れるように、誰かが苦しんでいると、誰かが救おうとするように。
ごく自然な振舞です。(そうならないのというのは、不自然なことです)
人の体の中においてもそのように活動している。たとえ、気づかなくても。
多様性とは、裏を返すと、個々で不足しているから、まとまって補い合うためにある。
これは全体で一つのものだからです。個は部分です。

「気づく」以前にそうだからです。

「理屈」とか「気づく」というのは、頭の働きによるもの。思考は後追いです。
石が自分に向かって飛んできたら、とっさに避けますが、この場合、感覚はあるものの、思考の余裕などありません。
別になくてもいいような「思考」ですが、何故か、人にはそういった力が備わっています。
元々起きていることを、頭で確認して、記憶して、原因分析や応用をしようとします。
まず事実があるのだが、それを頭で確認するように促されます。
確認することによって、人独自の「知ること」「創造すること」の喜びを得るようにできている。
しかし、この「知る」という力は、元々欠陥品で、何かが不足している。
その不足している何かを補おうとする力が働き続けている。

欠けているから補おうとする。
恐らくこれは、全宇宙的な営みだと思います。
もし完結したら何も動かなくなるでしょう。それまでは動き続ける。

頭は間違う

事実はそこにあるのですが、その事実を捉える時に間違いが起きる。

頭で捉えたものは、正確性に欠けるからです。事実以上でないからです。
困ったことに、捉えたと思った内容に執着してしまうと、逆に反撃を食らうことが多い。
不正確な知識が、今度は、人の心や行動にまで影響を及ぼしてくる。
不正確な事実認識が、逆に災いをもたらしてしまう。

自然なことを殺すことで、不自然な世界へと迷い込んでしまう。

災いは、事実を間違って認識することで起きてしまうことが多い。
思考力には限界があるからです。
厄介なことに、それが間違っていると自分で気づくことができないのです。
その限界をわきまえて振舞う必要がある。丸呑みは危険。

事実に勝るものは無い。(ここで言う事実は、頭で解釈された事実とは異なる)

ところが、その事実を正しく捉えるということが、ものすごく難しい。
人にはできないと思う。それを出来ると思うことの方が、傲慢ではないかと。
人はよく分からないまま生まれて、よく分からないまま死んでいくというのが、本当ではないだろうか。

知らないということを知るだけでも、人はもっと謙虚になれると思います。
本当に無能になった時、初めて真実に目覚める気がします。
今回は、曖昧で抽象的な話に終始しましたが、私はこのファジーさの中に真理を探し求めています。

巧言令色鮮し仁


「こうげんれいしょくすくなしじん」と読みます。仁は思いやり。出典:論語。
言葉巧みで愛想のいい人には、誠実な人が少ないという意味。

まあ、概してそのようです。
偉い議員さんの演説などを聞いていると、何も原稿を見ずに長々とすばらしいことをしゃべっておられるのを見ると、すごい才能だなと感心します。
ところが、壇上に上がる前は、苦々しい顔をしておられたのに、壇上に上がると豹変し、満面の笑みで語られている。変わり身の早さには驚きます。
テレビでも、カメラが回り始めると、豹変してしまうタレントさんもおられるようですが。
公と私の使い分けが非常に上手い。自然さが一番なのですが、それでは面白見がなく、印象も薄くなってしまうんです。

どうしても、与えることより受けることを望んでしまうんです。

聞く方は、公の面しか知らないので、その言葉に騙されやすい。
立派なことは誰でも言えます。ただ、そのことが分かっていても、騙される人は騙されるものです。
格好よくでかいことを言う人には、応援者も多い。橋や道路などのメンテなどしっかりやっても誰も偉いと思ってくれない。地味な働きはあまり評価されません。おかしなことですが。

私のような昔の人間は、朴訥なしゃべり方の人に温かみや誠実さを感じることが多い。
なんせ、「男は黙ってサッポロビール」の時代だったので。
昔の人の口数は、今より少なかったように思う。
今は、たくさんしゃべらないと分かってもらえないようだ。綺麗とかおいしいとか愛してるとか、口で言わないと分かってもらえない。
このことを妻に言うと、「言われないと分からないでしょ!」と反発を食らってしまった。ガクッときた。
夫婦でも阿吽の呼吸で分かり合えるというのは、少なくなってきたようだ。

私なんかは人の言うことは、まず信用しない。人は嘘も言うし、言い間違いもあるし、適当にしゃべることもあるし、本音かどうかさえ分からないこともあるので。
本音は、口から言葉が出る前にあると思っています。なので、話の内容についてはそれほど重きを置かない。
冒頭のことわざに絡めて言うと、その人に仁があるのかどうかを直観的に感じ取る。何よりも先に。
「あの人はこう言っていた」とか、そんなまた聞きは、信用しない。
いい人かどうかなんて、その人に会ってみないと分からない。会っても、その喋りに騙されると、分かったつもりになってしまいます。随分後になって気づいた時には、既に遅しとなることもある。

「伊豆の踊子」の小説の中に、「いい人はいいね」と語っているところがありますが、いい人とは、そいう感じでしか分からない。共感の中で伝わる。理屈ではなく、心で感じる。

同じ言葉でも、何気ない言葉の方がその人をよく示しています。一生懸命考えて作った言葉よりも。心がそのまま現れているためです。

「あの時に君が言ってくれた言葉で本当に救われたよ。感謝してる」と相手から言われた時、大抵、それを言った本人は覚えていない。
「俺、そんなこと言ったかい?」と聞き直すことがある。あまりに自然の流れで出て来た言葉は記憶にないんです。
そもそも、いいことをした時というのは、いいことをしたと思っていません。相手から言われて、初めて気づく。考える前に動いている。
逆に、いいことをしようとして、いいことをするというのは、良いことではありますが、完ぺきではないんです。

頭は本当によく間違う。当てにならない。自分の頭は信用できない。
頭でひねり出してきた言葉は、技巧的に繕われていることが多く、本音が現われていないことが多い。
人を見る時、語られる言葉の内容がどうのこうのよりも、根底に仁があるかどうかを感じ取ることが大事です。
自分を大事にするほどに、仁は少なくなる。自分をなくせばいいのだが、それが結構難しい。つい、与えることより受けることを望んでしまう。
綺麗なことは、誰でも言える。これを書いている私もそうかもしれない。

ファジーな世界のファジーなわたし


私はボヤ―としたものが好きです。頭が論理的にできてないからだろう。
近づいたらボヤーとしているですが、遠くから見ると白と黒に見えてしまう。
アナログ世界なんだが、自分の立ち位置によっては、デジタル世界として映ってしまう。
「ぼんやり」と「はっきり」とが分かれているのではない。二つあるわけではない。
一つのものが、視点の位置によって、二つのように見えてきたりする。

確かに、「ぼんやり」と「はっきり」とは、言葉の上では分かれています。
しかし、言葉を一切はさまないなら、分かれてなんかおらず、同じものです。
同じものだが、「はっきり」の側面しか見ていないのです。
10円玉の表を見ていると、確かに10円玉を見ているが、裏は見えていないのと似ている。

微細な原子の世界もそうだろう。
分析機器がボヤ―としたものを捉えられないから、分かれて捉えるしかなくなる。
人の目も機械の目も、基本的に正しく見ているのか怪しいところがあります。
最初から、そういう目で捉えようとしているから、結果、そういうふうに見えてこざるを得ない。フィルターを通して、下に落ちてきたものだけを見ている感じです。
フィルターに何が残っているのかが大事なんですが、それが見えにくい。
はっきり見えるというのは、曖昧なものを切り捨てることによってそうなる。
ここで、はっきり見えるものだけを「有る」としてしまうと、はっきりしないものが「無い」ということになってしまう。
頭(思考)で有無の二つにはっきり分けるからおかしくなる。

広大な宇宙についても同じです。
宇宙に果てなどありません。「果て」は、人の思考が生み出した産物。思考力の限界が、限界を作りだしている。
無限は有限を前提とした発想から生じるものです。無限大も無限小も誰も見たことがありません。思考の産物、イメージでしかない。
そもそも有限と決めている発想がおかしい気がする。有限に見えて有限でないというのが、真実に近い。見ても実体まで見えてないんです。何か恣意が入り込んでいる。

時間とか空間は、実在というよりも、心が何となく感じるものです。概念のようなものです。そのボヤ―とした感じのままがいいんです。
果てがないんだから、上も下も真ん中もないんです。
単に、区切った自分の頭や足を基準にして、上とか下とか言っているだけです。自分がどこから見るかで異なってくる。
一個、二個と当たり前に数えていますが、数や縦・横・高さなどは、生活する上で役に立つので、便宜的に使用している尺度にすぎない。
私たちは概念の世界で生きている。概とは本来、曖昧なんです。その曖昧なものを、頭で無理やり「時間と空間」で切断してはっきりさせると、ますます実態から離れてしまう。

私たちは、オギャーと生まれた時のことを覚えていません。その時を見ていない。
思考力とか記憶力というのは、少しづ増えてくる。最初はボヤ―としています。
後で得た経験や知識でもって、自分が生まれたことを追認しているだけ。自分で見たわけではない。
徐々に拡大してきた思考力や知識を基にして、全てを判断していますが、その知識が不確かなので、その判断も不確かなのです。

世界を見て、自分を自覚する。見て、振り返って自分を見るからです。
見なければ、自分の存在にも気づけない。
見るのは、自分を見るためです。だから、よく見ないといけない。

私はファジーな世界が気に入っている。
単に好き嫌いではなく、そこに本当のものが隠されている気がするからです。

差別について


殆どの人が、差別と言ってもピンとこないもの。体験してみないと分からないから。
差別がいけないと語ることは簡単ですが、実際に遭遇すると、そう簡単でないことが分かってきます。口では、立派なことはいくらでも言えます。
おかしなことですが、差別を知ると、逆に、差別をし始めるということがよく起きます。
何も知らなければ、差別なんかなかったのに、知ったがために急に意識して差別が始まるということがあります。
つまり、波の立っていないところに石を投げると、波が立ってくる。
頭はおかしな方向へ導くことが多い。知識は、差別化の傾向を内包している。
「知ること」と「分かること」では、気が遠くなるほどの差があるんです。

だから、差別問題について書くということは、大変恐いことなんです。
逆に、読む人を差別に導いてしまわないかと心配してしまう。

体験

日本では部落問題があります。(その他、差別には容姿や学歴や職業などたくさんあります)
私には小学校、中学校とその友達がいました。55年~60年前のことです。
私はそういった知識が全くなく、普通に彼らと仲良くしていました。

小学校の時、理由は覚えていないが、友達の家に行こうとして家を探したが、なかなか見つからなかった。ようやく見つけたら橋の下にあった。おかしなところにあるなと思った。
家もおんぼろだし。誰もいなかったので、何か書き残して置いたと思います。
翌日、学校で、その友達が真っ赤な顔をして、「何で家に来たんや!」と泣きそうな声で私に怒った。
私の家もおんぼろだったので、家がおんぼろなのを見られるのが嫌だったのかなと思った。でもそこまで怒らなくてもいいのにと思った。
後で、部落の人だと誰かから聞いて、納得した。しかし、なんかスッキリしなかった。
こちらに悪気は全くなかっても、相手がそうとることがあるんです。

中学生の友達は家まで遊びに行った。家の雰囲気には違和感を感じたが、友達とうまくいっていた。
家に帰って父親に言ったら、「あそこは部落だから行くな」と言われた。
そこで初めて知った。知ると、それから相手を変に意識するようになってしまった。
中学では部落問題の話が全校生徒を集めて講堂であった。何でそんな話が必要なのか、もう一つ理解できなかった。

会社では、採用予定者全員に、興信所の調査があった。隣近所の数件の家の人から、「興進所がきて、あんたのおうちのことを聞いてきたよ」と言われて分かった。
恐らく、これは部落に関することを調べているんだろうなと思った。
会社の取引先に部落の食料品店があって、よく訪問した。ある時、帰り際にこの魚持って帰るかと言われて、躊躇したことがあった。
何故なら、普通のスーパーの包みとか比べて、見た目があんまり綺麗でなかったんです。
やんわり断ったが、後で申し訳なかったなと感じたことがあります。
会社では、部落問題のビデオを定期的に見せられたが、誰も関心などなかった。
本部から見ろと言って見せられているだけ。形式的な繕いです。
これ以外にも色々あったが、書けないこともあります。

差別への関心が高まると、今度は差別された方々への優遇が始まる

差別がタブー視されて、役所が優先的にそういう方を採用したり、個人や団体に補助が出るようになった。
急に様々な優遇策が増えてくるんです。
優先枠で採用されると、それに任せて、適当に仕事をする人が増えてきて、トラブルや事件が増えてきたりします。
すると今度は、市民から非難を浴びるようになり、今までの優遇策を見直そうとなってくる。団体への優遇も見直されるようになってきた。

差別の改善は、優遇では解決しないんです。つまり、卑下も優越もいけないのですが、極端から極端にぶれやすいんです。
AとBしかない人や国は、AがだめならBへ行ってしまうんです。
可哀想だから助けようと思うのが人情ですが、優遇することも差別なんです。
やはり、地道に機会均等によって対応していくしかない。
ただ、いくら形を良くしても、それぞれの人の中身が変わらないと、根本的な解決は難しい。繕ったものはほころびが出るんです。

人は、自分より下を欲しがるんです。自分を優越化したいんです。
人には、人の不幸を喜ぶところがあります。
これは、支配欲と同じ。根が深すぎます。根絶は不可能に近い。
「今、一生懸命頑張っている」のは、上に立つためではないんですか?
自分の心の中をじっくりと覗いてみるといいでしょう。

縄張りと防御


動物は、テリトリーとか防御領域をつくって、それを守ろうとします。
犬や猫、鳥なども縄張り意識があります。
人も同様です。他人が土足で自分の家に勝手に入ってこられるのを防ごうとします。
皆、自分や家族を守ろうとします。
肉体もウィルスなどから身を守ろうとします。防御する。自分の意思に関わりなく。
自分の領域に必要以上に入ってこられると、熱い戦いが始まり、殺し合いが始まります。
つまり、相手の領域を侵してしまうと大変なことになる。
領域が集まって、村があり、またそれらが集まって国がある。国には守るべき領域があり、防御機能を構築しています。

自分のものがあるから、それを守ろうとします。
犬は、私が食べ物を持っていると、しっぽを振って欲しそうにします。
つまり、この段階では、犬はその食べ物は私のものだと認めています。
そして、犬にそれを与えると、その瞬間、それは犬のものになってしまいます。
渡したものを私が奪い取ろうとすると、ウーと唸ってきます。
人に対し愛着がない熊などは、状況によって直接人から食べ物を奪うこともあります。
知識の少ない幼い子供でも、いったん与えると自分のものだと主張し、返すのを渋ったりします。

人も犬もそうですが、特に害のない人であれば、自分の家に入れることをそう嫌がりません。
私の子供の頃は、家に鍵をかけるおうちなどなかったが、今は鍵をかけるのが当たり前になっています。それほど物騒な時代になってきたと言えます。
徒然草には、竹で作った垣根があったことが記載されています。
ただ、鍵をかけない人でも、自分の心の中まで土足でずかずか入ってこられるのは嫌なものです。

礼儀や作法というのは、こういった互いの領域を尊重することから生れてきたのだろう。それが潤滑油のように機能していた。
孔子や仏教が受け入れられたのも、その素地が既にあったからだと思います。
昔は法律ではなく、「教え」が浸透していたのではないでしょうか。
権利という概念は、明治時代に西洋から入ってきたのだと思います。

今や法治国家ということで、少し知識のある方だと、何でも憲法や法律に照らして物事を判断しようとします。
しかし、大事なことは、いつも法律以前のところにあるということ。
権利権利と主張して、裁判で表面上決着したとしても、しこりは消えない。差別問題なんかは特にそうです。
そのことが、今、表面化している。
心の問題は法律で規制できない。出てきた問題を叩くことはできても根本解決に至らない。根が深いんです。