違いを超えて


誰かが何か語ると、それは善くにもとられたり、悪くにもとられたりします。
この世では、100%正しい、100%間違いというのはないからです。
だから、どちらかに決めてしまうと、かえって対立を生むだけなんです。
一方に傾くと、一方が反発する。シーソーのようなものです。
バランスをとるのが難しい。なので、決めつけないことです。
中途半端に頭がいい人ほど勝手に決めつけて、人を惑わしている。
論理的で分かりやすいものには、騙されやすい。単純化が誤解を招く。
この世は、AかBかではなく、AでもありBでもあるような世界です。
知識は、切り分けたり、分断したがる傾向を持つ。踏み絵のように。
白か黒かではないんですが、どうしても白と黒に分けたがるんです。
ある方位から見るとそう見えても、別の方位から見るとそう見えなかったりするもの。全方位から見ることは殆ど不可能に近いんです。

AとBの「間」にこそ真理が隠されている。融通無碍なんです。
ここを見ないと、「間」違うし、「間」抜けになります。

理解するために、人は言葉を与えられて、生きている。
ところが、今や、言葉によって誤解を招いている。

違いは、違いを超えたものを理解するために用意されている。
違いが違いだけに留まるなら、この世に生まれた意味がない。
ましてや、違いが差別に変わるとなると、最悪です。
世界の中にいるのに、その世界を否定している。
だから、返される。自分の語る言葉でもって、自分に返される。

心無い言葉が対立を生む。
心無いとは、愛がないからです。
真の愛は、逃げもしないし、自分の死をも恐れない。
この世では、言葉に愛がない。空虚な言葉だけが飛び交っている。
自分を守ることだけを思っている。散らすだけで集めようとしない。
どんな知識も愛には勝てない。知識は当てにならない。

この愛はとても難しい。だから、この世の苦難は簡単にはなくならない。