強い者と弱い者


元々、強いものもあれば、弱いものもあります。
「もの」もそうだし、「人」もそうです。
多様性として、事実として、あるんです。

最初の頃は、強いものも弱いものも一緒に仲良く遊んでいた。
ところが、一緒に遊んでいると、あいつは強い、自分は弱いと比較するようになってきます。
まだ、この段階では、違いを知っただけで、差別には至らない。理解として留まっている。

しかし、強いものが、強いものだと知って、優越感を抱く時があります。
弱いものが弱いものだと知って、劣等感を抱く時があります。
この瞬間、差別が生まれる。違いが差別に変わる。
(※差別という言葉は、元々「違い」という意味で使われていたんです)
そして、強いものを褒めたたえる環境がこれに拍車をかけていく。強いものが偉いものとなる。

強いものは自分の努力で強くなったのだと言い、努力しないお前たちが悪いのだと言うようになる。努力して強くなったのだから、それだけの報酬や権威を得て当然だと主張します。
劣等感を抱いたものは、相手から遠ざかるようになる。自分よりもっと弱いものを探そうとします。少しでも優越意識が欲しいからです。
傲慢と卑屈が対峙する。支配と被支配は、心において生じる。
こうして、互いに楽しく遊んでいた子供の頃が終わりを告げる。

強いものと弱い者の差別が生じると、大体半々の勢力に分かれます。
強いものと弱いものとは、主張が折り合わない。
口では格好良く平等を叫んでも、根底に差別意識があるので解決は難しい。
この意識は小手先の方法で変えられない。根が深すぎる。
そもそも、「弱肉強食」という土台の上に平等なんか築けないんです。

水は高いところから低いところに流れます。
この自然な流れが滞ると、おかしくなってしまう。

もう一度、あの頃の自分に戻れないのだろうか?
何も知らなければよかったのだろうか?