相対的

じっとしている者から見ると、動いているものはエネルギーを使っていて大変だと思うに違いない。
逆に、いつも動いている者から見ると、じっとしていることはエネルギーを使っていて大変だと思うだろう。
止まっているのが常態なのか、動いているのが常態なのか。
この議論は、実のところ、あまり意味がありません。
と言うのは、どちらでも捉えられるからです。そう見るとそうなる。
実際のところ、動いて見えるが本当に動いているのか、止まって見えるが本当に止まっているのかよく分からないんです。
人の感覚というのは、当てにならないところがあります。
なので、この議論にエネルギーを使う方が無駄ということになります。

上とか下もそう。頭を基準にして上とか下とか言います。相対的。
地球の反対側にいる人の上は逆になります。
つまり、絶体的な上、下、真ん中というのはないんです。
広い宇宙を見ると分かるが、どこが真ん中か分からない。端がないと真ん中は決められない。つまり、真ん中という言葉が不要になる。
地球では上から下に水が流れるが、宇宙空間ではそうならないので、上とか下とかいう概念はあまり役に立たない。
地球という場と宇宙という場では、同じように語れない。
どの場にいるかで、日常用語も変わってこざるを得ない。同じ基準が当てはまらない。
観測者がどの場にいるかで、基準自体を替えないといけないことが起きます。もし変えずに測ると、ズレて頭がおかしくなってくる。
私達が使っている言葉は生活する上では役に立ちますが、不変の真理を知る上では、邪魔になることが多い。
相対を超えて、より絶体を求めようとしても、相対から脱すること自体が難しい。
人が定めた基準は、そもそも絶対基準になり得ない。

あるものを具体化しようとして、具体化した途端に、あるものの本来の姿が失われてしまう