求めるものと与えるもの

理屈以前

赤ん坊が生まれると、母親のお乳を求め、母親はそれを与える。
これは、人だけでなく、犬や猫でも同じです。
ごく自然なことで、理屈などない。

「理屈」以前にそうだからです。

不足しているものがあって、それを補おうとする働きが生じる。
その繰り返しがこの世界。それで、動いている。
水が上から下に流れるように、誰かが苦しんでいると、誰かが救おうとするように。
ごく自然な振舞です。(そうならないのというのは、不自然なことです)
人の体の中においてもそのように活動している。たとえ、気づかなくても。
多様性とは、裏を返すと、個々で不足しているから、まとまって補い合うためにある。
これは全体で一つのものだからです。個は部分です。

「気づく」以前にそうだからです。

「理屈」とか「気づく」というのは、頭の働きによるもの。思考は後追いです。
石が自分に向かって飛んできたら、とっさに避けますが、この場合、感覚はあるものの、思考の余裕などありません。
別になくてもいいような「思考」ですが、何故か、人にはそういった力が備わっています。
元々起きていることを、頭で確認して、記憶して、原因分析や応用をしようとします。
まず事実があるのだが、それを頭で確認するように促されます。
確認することによって、人独自の「知ること」「創造すること」の喜びを得るようにできている。
しかし、この「知る」という力は、元々欠陥品で、何かが不足している。
その不足している何かを補おうとする力が働き続けている。

欠けているから補おうとする。
恐らくこれは、全宇宙的な営みだと思います。
もし完結したら何も動かなくなるでしょう。それまでは動き続ける。

頭は間違う

事実はそこにあるのですが、その事実を捉える時に間違いが起きる。

頭で捉えたものは、正確性に欠けるからです。事実以上でないからです。
困ったことに、捉えたと思った内容に執着してしまうと、逆に反撃を食らうことが多い。
不正確な知識が、今度は、人の心や行動にまで影響を及ぼしてくる。
不正確な事実認識が、逆に災いをもたらしてしまう。

自然なことを殺すことで、不自然な世界へと迷い込んでしまう。

災いは、事実を間違って認識することで起きてしまうことが多い。
思考力には限界があるからです。
厄介なことに、それが間違っていると自分で気づくことができないのです。
その限界をわきまえて振舞う必要がある。丸呑みは危険。

事実に勝るものは無い。(ここで言う事実は、頭で解釈された事実とは異なる)

ところが、その事実を正しく捉えるということが、ものすごく難しい。
人にはできないと思う。それを出来ると思うことの方が、傲慢ではないかと。
人はよく分からないまま生まれて、よく分からないまま死んでいくというのが、本当ではないだろうか。

知らないということを知るだけでも、人はもっと謙虚になれると思います。
本当に無能になった時、初めて真実に目覚める気がします。
今回は、曖昧で抽象的な話に終始しましたが、私はこのファジーさの中に真理を探し求めています。