空虚

人は、「生きる意味があるのか」とか、「生きる価値があるのか」とか考えたりします。
私はこういったことを考えること自体に意味も価値も感じない。
何故なら、そんなことを考える前に、既に生きているからです。
犬や猫や幼子などは、そんなこと考えない。しかしそれでも、生きています。
それでいい。

本当にまじめに考えたら、絶望するか死ぬかしかない。
不真面目に考えているから、何とか生きておられる。少し言い方が悪いですが。
所詮、人の考える力なんて、しれている。そう見切ることで、初めて出発点に立てる。
思考は、真実を捉えることができない。考えれば考えるほど、どつぼにはまる。
「考え」に頼って生きていてはだめ。自分の頭はそれほど賢くない。

どうしても価値が欲しいと言うのであれば、生きていること、そのままを価値として感じられるようになることだと思います。

何故、そういうことを人は考えるのかというと、元々、奥底に空虚があるからです。根幹に悲しみを持っている。欠けている。
順風な中では、生と死についてそれほど意識しません。ただ、順風でないことが多々あるので、そういう時に空虚が噴出してくるのです。
厭世感が生じて、気力がなくなったりとか、どうせ死ぬんだからと思うようになる。
自分の中にポカっと穴が開いている。その穴を埋めるために意味とか価値で埋め合わせしようと必死になっている。
ところが、それで一時的に心が安らぐことはあっても長続きしない。結局、また、元に戻ってしまう。
そうするとまた、別の何かで埋め合わせしようとする。それが欺瞞でも構わないんです。穴を埋めればいいのだから。
こうして、繰り返し繰り返し自分をだまし続けながら生きている。
そして、この世を終える。

「考え方」で空虚感はなくなりません。逆に、考えない方がまし。
私たちが通常語っている生と死は頭の中のもの。感性と思考の中にあって、考えの中で生きている。思考の産物です。
つまり、死を見て勝手に解釈し、その反対として、生を感じている。
死を知らなければ、生も知らない。知識によって死ぬのです。

死を学ばされるのは、死を超えて生きるためです。
思考以前においては、生もなければ死もないからです。生死不二。
二つに分ける意味が消失する。つまり、分けて見ているのは、分けないためです。
執着を離れるとは、このことです。
ここに至って、空虚が消え去る。穴が塞がる。「本当の命」に出会う。
空虚を学ばされるのは、まさに空虚を滅失するためです。
本当に分かるというのは、知識では無理。知識を捨てることでしか分からない。