巧言令色鮮し仁


「こうげんれいしょくすくなしじん」と読みます。仁は思いやり。出典:論語。
言葉巧みで愛想のいい人には、誠実な人が少ないという意味。

まあ、概してそのようです。
偉い議員さんの演説などを聞いていると、何も原稿を見ずに長々とすばらしいことをしゃべっておられるのを見ると、すごい才能だなと感心します。
ところが、壇上に上がる前は、苦々しい顔をしておられたのに、壇上に上がると豹変し、満面の笑みで語られている。変わり身の早さには驚きます。
テレビでも、カメラが回り始めると、豹変してしまうタレントさんもおられるようですが。
公と私の使い分けが非常に上手い。自然さが一番なのですが、それでは面白見がなく、印象も薄くなってしまうんです。

どうしても、与えることより受けることを望んでしまうんです。

聞く方は、公の面しか知らないので、その言葉に騙されやすい。
立派なことは誰でも言えます。ただ、そのことが分かっていても、騙される人は騙されるものです。
格好よくでかいことを言う人には、応援者も多い。橋や道路などのメンテなどしっかりやっても誰も偉いと思ってくれない。地味な働きはあまり評価されません。おかしなことですが。

私のような昔の人間は、朴訥なしゃべり方の人に温かみや誠実さを感じることが多い。
なんせ、「男は黙ってサッポロビール」の時代だったので。
昔の人の口数は、今より少なかったように思う。
今は、たくさんしゃべらないと分かってもらえないようだ。綺麗とかおいしいとか愛してるとか、口で言わないと分かってもらえない。
このことを妻に言うと、「言われないと分からないでしょ!」と反発を食らってしまった。ガクッときた。
夫婦でも阿吽の呼吸で分かり合えるというのは、少なくなってきたようだ。

私なんかは人の言うことは、まず信用しない。人は嘘も言うし、言い間違いもあるし、適当にしゃべることもあるし、本音かどうかさえ分からないこともあるので。
本音は、口から言葉が出る前にあると思っています。なので、話の内容についてはそれほど重きを置かない。
冒頭のことわざに絡めて言うと、その人に仁があるのかどうかを直観的に感じ取る。何よりも先に。
「あの人はこう言っていた」とか、そんなまた聞きは、信用しない。
いい人かどうかなんて、その人に会ってみないと分からない。会っても、その喋りに騙されると、分かったつもりになってしまいます。随分後になって気づいた時には、既に遅しとなることもある。

「伊豆の踊子」の小説の中に、「いい人はいいね」と語っているところがありますが、いい人とは、そいう感じでしか分からない。共感の中で伝わる。理屈ではなく、心で感じる。

同じ言葉でも、何気ない言葉の方がその人をよく示しています。一生懸命考えて作った言葉よりも。心がそのまま現れているためです。

「あの時に君が言ってくれた言葉で本当に救われたよ。感謝してる」と相手から言われた時、大抵、それを言った本人は覚えていない。
「俺、そんなこと言ったかい?」と聞き直すことがある。あまりに自然の流れで出て来た言葉は記憶にないんです。
そもそも、いいことをした時というのは、いいことをしたと思っていません。相手から言われて、初めて気づく。考える前に動いている。
逆に、いいことをしようとして、いいことをするというのは、良いことではありますが、完ぺきではないんです。

頭は本当によく間違う。当てにならない。自分の頭は信用できない。
頭でひねり出してきた言葉は、技巧的に繕われていることが多く、本音が現われていないことが多い。
人を見る時、語られる言葉の内容がどうのこうのよりも、根底に仁があるかどうかを感じ取ることが大事です。
自分を大事にするほどに、仁は少なくなる。自分をなくせばいいのだが、それが結構難しい。つい、与えることより受けることを望んでしまう。
綺麗なことは、誰でも言える。これを書いている私もそうかもしれない。