差別について


殆どの人が、差別と言ってもピンとこないもの。体験してみないと分からないから。
差別がいけないと語ることは簡単ですが、実際に遭遇すると、そう簡単でないことが分かってきます。口では、立派なことはいくらでも言えます。
おかしなことですが、差別を知ると、逆に、差別をし始めるということがよく起きます。
何も知らなければ、差別なんかなかったのに、知ったがために急に意識して差別が始まるということがあります。
つまり、波の立っていないところに石を投げると、波が立ってくる。
頭はおかしな方向へ導くことが多い。知識は、差別化の傾向を内包している。
「知ること」と「分かること」では、気が遠くなるほどの差があるんです。

だから、差別問題について書くということは、大変恐いことなんです。
逆に、読む人を差別に導いてしまわないかと心配してしまう。

体験

日本では部落問題があります。(その他、差別には容姿や学歴や職業などたくさんあります)
私には小学校、中学校とその友達がいました。55年~60年前のことです。
私はそういった知識が全くなく、普通に彼らと仲良くしていました。

小学校の時、理由は覚えていないが、友達の家に行こうとして家を探したが、なかなか見つからなかった。ようやく見つけたら橋の下にあった。おかしなところにあるなと思った。
家もおんぼろだし。誰もいなかったので、何か書き残して置いたと思います。
翌日、学校で、その友達が真っ赤な顔をして、「何で家に来たんや!」と泣きそうな声で私に怒った。
私の家もおんぼろだったので、家がおんぼろなのを見られるのが嫌だったのかなと思った。でもそこまで怒らなくてもいいのにと思った。
後で、部落の人だと誰かから聞いて、納得した。しかし、なんかスッキリしなかった。
こちらに悪気は全くなかっても、相手がそうとることがあるんです。

中学生の友達は家まで遊びに行った。家の雰囲気には違和感を感じたが、友達とうまくいっていた。
家に帰って父親に言ったら、「あそこは部落だから行くな」と言われた。
そこで初めて知った。知ると、それから相手を変に意識するようになってしまった。
中学では部落問題の話が全校生徒を集めて講堂であった。何でそんな話が必要なのか、もう一つ理解できなかった。

会社では、採用予定者全員に、興信所の調査があった。隣近所の数件の家の人から、「興進所がきて、あんたのおうちのことを聞いてきたよ」と言われて分かった。
恐らく、これは部落に関することを調べているんだろうなと思った。
会社の取引先に部落の食料品店があって、よく訪問した。ある時、帰り際にこの魚持って帰るかと言われて、躊躇したことがあった。
何故なら、普通のスーパーの包みとか比べて、見た目があんまり綺麗でなかったんです。
やんわり断ったが、後で申し訳なかったなと感じたことがあります。
会社では、部落問題のビデオを定期的に見せられたが、誰も関心などなかった。
本部から見ろと言って見せられているだけ。形式的な繕いです。
これ以外にも色々あったが、書けないこともあります。

差別への関心が高まると、今度は差別された方々への優遇が始まる

差別がタブー視されて、役所が優先的にそういう方を採用したり、個人や団体に補助が出るようになった。
急に様々な優遇策が増えてくるんです。
優先枠で採用されると、それに任せて、適当に仕事をする人が増えてきて、トラブルや事件が増えてきたりします。
すると今度は、市民から非難を浴びるようになり、今までの優遇策を見直そうとなってくる。団体への優遇も見直されるようになってきた。

差別の改善は、優遇では解決しないんです。つまり、卑下も優越もいけないのですが、極端から極端にぶれやすいんです。
AとBしかない人や国は、AがだめならBへ行ってしまうんです。
可哀想だから助けようと思うのが人情ですが、優遇することも差別なんです。
やはり、地道に機会均等によって対応していくしかない。
ただ、いくら形を良くしても、それぞれの人の中身が変わらないと、根本的な解決は難しい。繕ったものはほころびが出るんです。

人は、自分より下を欲しがるんです。自分を優越化したいんです。
人には、人の不幸を喜ぶところがあります。
これは、支配欲と同じ。根が深すぎます。根絶は不可能に近い。
「今、一生懸命頑張っている」のは、上に立つためではないんですか?
自分の心の中をじっくりと覗いてみるといいでしょう。

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