ファジーな世界のファジーなわたし


私はボヤ―としたものが好きです。頭が論理的にできてないからだろう。
近づいたらボヤーとしているのですが、遠くから見ると白と黒に見えてしまう。
アナログ世界なんだが、自分の立ち位置によっては、デジタル世界として映ってしまう。
「ぼんやり」と「はっきり」とが分かれているのではない。二つあるわけではない。
一つのものが、視点の位置によって、二つのように見えてきたりする。

確かに、「ぼんやり」と「はっきり」とは、言葉の上では分かれています。
しかし、言葉を一切はさまないなら、分かれてなんかおらず、同じものです。
同じものだが、「はっきり」の側面しか見ていないのです。
10円玉の表を見ていると、確かに10円玉を見ているが、裏は見えていないのと似ている。

微細な原子の世界もそうだろう。
分析機器がボヤ―としたものを捉えられないから、分かれて捉えるしかなくなる。
人の目も機械の目も、基本的に正しく見ているのか怪しいところがあります。
最初から、そういう目で捉えようとしているから、結果、そういうふうに見えてこざるを得ない。フィルターを通して、下に落ちてきたものだけを見ている感じです。
フィルターに何が残っているのかが大事なんですが、それが見えにくい。
はっきり見えるというのは、曖昧なものを切り捨てることによってそうなる。
ここで、はっきり見えるものだけを「有る」としてしまうと、はっきりしないものが「無い」ということになってしまう。
頭(思考)で有無の二つにはっきり分けるからおかしくなる。

広大な宇宙についても同じです。
宇宙に果てなどありません。「果て」は、人の思考が生み出した産物。思考力の限界が、限界を作りだしている。
無限は有限を前提とした発想から生じるものです。無限大も無限小も誰も見たことがありません。思考の産物、イメージでしかない。
そもそも有限と決めている発想がおかしい気がする。有限に見えて有限でないというのが、真実に近い。見ても実体まで見えてないんです。何か恣意が入り込んでいる。

時間とか空間は、実在というよりも、心が何となく感じるものです。概念のようなものです。そのボヤ―とした感じのままがいいんです。
果てがないんだから、上も下も真ん中もないんです。
単に、区切った自分の頭や足を基準にして、上とか下とか言っているだけです。自分がどこから見るかで異なってくる。
一個、二個と当たり前に数えていますが、数や縦・横・高さなどは、生活する上で役に立つので、便宜的に使用している尺度にすぎない。
私たちは概念の世界で生きている。概とは本来、曖昧なんです。その曖昧なものを、頭で無理やり「時間と空間」で切断してはっきりさせると、ますます実態から離れてしまう。

私たちは、オギャーと生まれた時のことを覚えていません。その時を見ていない。
思考力とか記憶力というのは、少しづ増えてくる。最初はボヤ―としています。
後で得た経験や知識でもって、自分が生まれたことを追認しているだけ。自分で見たわけではない。
徐々に拡大してきた思考力や知識を基にして、全てを判断していますが、その知識が不確かなので、その判断も不確かなのです。

世界を見て、自分を自覚する。見て、振り返って自分を見るからです。
見なければ、自分の存在にも気づけない。
見るのは、自分を見るためです。だから、よく見ないといけない。

私はファジーな世界が気に入っている。
単に好き嫌いではなく、そこに本当のものが隠されている気がするからです。