嘘でも100回も200回も聞いていると、本当になってしまう。
妙な音楽や歌でも毎日聞いていると耳に馴染んでくる。
学校で教えられると、それが正しいものとなる。
皆がそうしていると、それが正しいものとなる。
最初からそこで暮らしていると、そこの文化に自然と馴染んでしまう。
人は、置かれた環境に適応していくもの。動物やウィルスもそう。
井戸の中にいると、それが当たり前すぎて誰もおかしいなどと疑問すら抱きません。
井戸から出てみないと、井戸の中のことが分からない、と言われます。
確かに、井戸の外から見て比較すると、何か分かったような気がするもの。
蛙は外に出ると、全く新しい世界に驚き、喜び、以前住んでいた井戸を小ばかにするようになります。
井戸の外に出てたくさんのこと知るようになると、妙に賢くなったように思えてくるからです。
田舎から都会に出て来た者のように。
ところが、「違い」を知っただけなんです。単に知識が増えただけで、賢くなったわけではない。
だって、「違い」というのは元々あるのですから。
単語や概念を増やして細かくしただけ。たくさんの学問も単に細かくして複雑にしただけ。
自分が賢くなったと錯覚するところから多くの過ちが生じてくる。
外に出て、そこに長く住みつくと、今度は、新しいところに馴染んでしまうようになる。
特別そこがいいとも思わなくなってきます。
つまり、新しい井戸に入ってしまっただけのこと。
そうした時、ふと昔の井戸の方が懐かしく思えてきたりすることがあるのです。
鮭が大海に出ても故郷に戻ってくるように。
たくさん知ったと思っていたが、実は何も知らなかったことにだんだん気づいてくるのです。
小ばかにしていた自分が、一番馬鹿だったことに気付いてくるのです。
人を馬鹿にすれば、それがそのまま自分に返ってくる。自分のしたことが自分に返される。
人の成長過程は、このような変遷を辿るようだ。
差別という言葉の意味は、元々、「違い」を示すものだった。
ところが現在における差別の意味は、人権用語として使われています。
違いは特性であり個性で、いいも悪いもない。いや、違いがあってこそ世界が成り立っている。だから、違いを非難してはいけない。
違いは認めるものです。卑下してもいけないし、尊大ぶってもいけない。
愛のない非難する心こそが忌み嫌われるべきものなのです。