ギリギリになった時に、人は試される。
そこでは、本音しか出てこない。
今迄、臭いものに蓋をし、格好をつけて生きてきたが、その蓋が全部剥がされてしまう。
もう逃げ道がない。
その時、あなたなら、どうする?
そこで試される。
「生か死か」のようなギリギリの時もそうですが、その時になったら、実際どうするのかは予測なんかできない。
平常時に頭で考えていた思いや希望は、ことごとく打ち砕かれるだろう。
戦争は戦争に行ったものでないと分からない。平常時と全てが逆転します。
平常時の考えは、あくまで平常時においてのみ考えられる考えなのです。
考える力というのも、徐々に衰えてきますし、考えも移りやすい。
一点にいて、全ての動くものを客観的に捉えていると思っているが、自分も動いている。
浅はかな考えと言いますが、考えに頼ることが既に浅はかなのです。
通常思うことは、単に思うことで留まっているだけ。深さがない。根っこまで届いていない。
ギリギリの時には役に立たない。
だから、試される。
土壇場では、あたふたするしかない。これこそ、人間が置かれた本来の状況です。
人の頭も知識も全く役に立たない。この時に至って、初めて分かる。
思い通りにいかないことは頭で知っていても、それが本当に分かるのは、この時です。
いかに飾りもので生きてきたことか。まるで夢や幻の中で生きてきたかのようです。
もう、この時になって気付いても遅いでしょう。
綺麗ごとがすべて剥がされた後でも、美しいものを見れる人は幸せです。
その人だけは、あたふたしない。
その人は死に打ち勝っている。死なない。
実を言うと、人はいつも試されているし、その報いも受けています。
見たくないものは、見ないよう蓋をしているので、気づかないだけ。
本当の自分を見たくないんです。非力で劣った自分を見たくないんです。
傲慢なんです。
非力で劣っているのが、人間なんです。
この事実を何故認めようとしないのか。