聖書に書かれている「命」とは


聖書で学んだことを書き記しました。私の精神の記録として。
直観に基づくものが多いので、間違いがあるかもしれません。霊的なものは、霊と真理でもってしか分からない。肉は何一つ理解できない。
神を全く信じない人にとっては、聖書は嘘でしかないので、このブログを読んでも何も得られるものはありません。

聖書に書かれている命とは、永遠の命、「わたし」のことです。

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である」
イエスは言われた。「わたしを知っているなら、父をも知ることになる」
イエスは言われた。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」

つまり、私達が普段語っている「わたし」や「命」とは随分異なります。
これは、私がわたしを知らない、命を知らないということから起きます。
本当のわたし、自分自身を知らない。これが根本の闇です。
詰まるところ、「知る」、「知らない」にかかっている。

霊から生まれたものは霊であり、自分がどこから来てどこに行くのか知らない。
これは、肉も同じです。
聖書において「知る」とは、わたし自身を知ることなのです。

何故、「わたし」が生まれたのか?

「ある」にはあっても、証するものがいなければ、「ある」ことすら分からない。
だから、「わたし」が生まれた。真理を証するために。
これは、天地創造以前のことです。
神が唯一であるように、この「わたし」も唯一だった。

ところが、生まれた「わたし」(霊)は何も知らなかった。どこから生まれたか知らなかった。霊であることなど知る余地もなかった。
父と子の関係は、この時から生じたのですが、子は子であることを知らなかった。
まさに、「わたし」は、ここから始まった。
この時、「わたし」は言葉を持っていなかった。なので、「わたし」というはっきっりした自覚がなかった。

知るためには、いったんそこから出ないといけない。
そして、出ていったところから見て、出たことを知って、戻っていく。
出ていったきりだと、そこから出たことを知ることはできない。

ここに、「知る」ということの本質を見る。
すなわち、神の口から言葉が出ますが、言葉も神であるからです。
「わたし」として出て行くが、その「わたし」は、最初から神と共に「ある」からです。
これが、「わたしはある」であり、永遠の命です。

霊から生まれたものは霊であり、自分がどこから来てどこに行くのか知らない。肉から生まれたものも同じです。
霊だけ、肉だけのものは、真理(命)を持ちえないからです。
「知る」とは、まさに、真理(命)を持つことにある。
「わたしはある」ということを知ることにある。
これは、わたしが完全に神の中に入ることでもあります。
真理においては、いつも入っています。だから、真理通りに入らないといけないのです。

神の霊を、人の言葉で正確に表現できない。しかし、似た「たとえ」を用いてならできるのです。
人は神に似せて造られたので、「たとえ」を理解する小さな芽を持っています。
それ故、神は、知らないものに対し、「たとえ」を用いて導こうとされる。
神の業によって、隠れたものを、現わして、見せようとされる。
神のなさる業を見て、わたしも同じようにそうするために。そのために、出た。
こうして、出たことを知って、つながる。元に戻ってくる。
見ても、それによって自分自身を見なければ、見たことにならない。
これは、鏡がないと、自分の顔が見えないのと似ています。

天地の創造

闇しかなかった。だから闇に属した。これは避けようがない。
水の面を神の霊が動いていた。
しかし、闇で見えなかった。
霊の内にいたのですが、そのことを知らなかった。

「わたし」は、言葉を持っていなかった。「知る」には、どうしても言葉がいる。
だから、光が入って、闇を照らした。神は光と闇に分けられた。
分けることで、天地創造が始まった。光があり、闇があった。
世界を造り、人を造って、人に言葉を与えようとされた。世界がなければ、言葉を語れない。
すべては、何も知らない「わたし」のために、次々と加えて与えられていった。
これが天地創造の過程です。
与えられたものでもって、与えた方を知るようにと、そうされた。
神の霊を直接知ることはできない。だから、与えられるのです。
「知る方」は、神以外におられない。なので、神によって教えられるようにと、そうされた。

「わたしは、元々、何も知らない」ということを学ぶことは大事です。
「知る」とは、全く知らないところから始まって、最後に知るということ。

真理はいつもあります。しかし、隠れているので、直接知ることができない。
隠れたものは、現わされないと気づけない。
それ故、神は光と闇に分けて、天と地(言葉による世界)を創造された。
「わたし」は、様々な場所へ連れていかれる。そして、今、ここにいる。

天地は、最初があり、最後があります。
これは、最初も最後もないものを知るためです。

天地創造の6日目に人が造られた。
天地万物は完成された。これが天上の体。隠れている。
しかし、この時、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。

天地が完成した後に、地上の土の塵で人を形づくり、そこに命の息を吹き込まれて人は生きるものとなった。これが地上の体。現わされた。
「わたし」が「わたし」というはっきりした自覚を持ったのは、この時です。
言葉を語ることで、自覚するからです。

隠れたものを現わされた。神のなさる業を見せるためです。
神のなさる業を見て、人もそうするからです。
神のなさることを、人に任せようとされた。

「知る」には、二つある。「命の木」と「善悪の知識の木」

「知る」に至る前があります。元々、人は何も知らないところから始まったからです。
最初の人は天上にいた。裸だった。しかし、裸であることを知らなかった。
まだ、霊も肉も着ていなかったが、恥ずかしがりはしなかった。
神の言葉を受けて、地上に向けて語っていた。本当に無垢だった。罪がなく、死がなかった。
人は命を与えられて、神の言葉を聞いた。命とは、本来、そういうものだから。

人は、「わたしの骨の骨。わたしの肉の肉」と語ったが、そのわたしは神と共にあった。
つまり、その「わたし」は、今の私たちの「わたし」とは違っています。
「わたし」は霊でもなく、肉でもなかった。
当然に神の言葉を聞き、当然に生きていた。これは「知る」以前です。
当たり前すぎると、有難みや魅力を感じない。もの足りなさがあった。
人は生きるものとなったが、その人自身においては、生きているという認識がなかった。
これは、神によって命を与えられたことを知らなかったからです。
単に「ある」ということと、「あるということを知る」ということとは、雲泥の差があるのです。

今の私達が通常、「知る」と言う場合、「善悪の知識の木」のことです。
しかし、本当の「知る」は、「命の木」のことを指します。
人はどちらの木からでも食べることができた。神に似せて、自由意志を持っていたからです。
しかし、神は人に命じて言われた。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
人はこの命令を守っていたからこそ、天上に留まっていたのです。
だが、人は地上のあらゆるものに名を付けているうちに、少し賢くなったように錯覚してしまうことがあります。概念が実在化して、固まりつつあった。

ここで初めて、「知る」が起きようとしていた。神はどうするかじっと見ておられた。
人は試されていた。神はすべてご存じの上で試されます。子となるまでは。

何も知らなかった人が、初めて「知る」段階において、「善悪の知識の木」を食べたがために、「命」も「わたし」も知ることができなくなったのです。
これは、天上で起きた。
知識(地上の土の塵)は食べてはいけないものだった。知識に命はないからです。
命のない知識を食べるから、死ぬことになる。
塵の側に立って自分を振り返ると、裸だと知って怖くなります。だから、神は人に皮の衣を着せて地上に連れていかれた。
魂そのものに皮の衣を着せられたので、自分ではどうすることもできない。

土の塵が悪いのではない。神の命令に背いて、食べたことが悪いのです。
塵とは、隠れたものを理解するために、隠れたものを時や広がりを用いて表現するためのものです。
「光るもの」によって、見えない「光と闇」を見える「昼と夜」の形で現わして、日と季節を示すようにされた。
知らないものには、「たとえ」を用いて、神は導こうとされるからです。
人が、時や広がりで世界を理解するのは、このためです。
ただ、自分が塵になってはいけない。「もの」の呪縛にはまってしまいます。

神は塵を集めて形づくられます。それで、人は形づくられたものを見て、不思議な力を感じることがあるのです。父から学ぶ。
父から学んだものは、次に真理を求めるようになる。
この世で見るのは見えないものを見るため、この世で聞くのは聞こえないものを聞くためです。
時は水に似ており、広がりは神の霊に似ている。

神は土の塵を集めて器だけを造られたのではない。そこに、神ご自身の命を吹き込まれた。
命を受けて初めて生きるものとなるのです。
ところが、器の部分に惹かれてしまうと、死ぬことになります。土の塵に、命などないからです。
神が「善悪の知識の木」を食べてはいけないと命令されたのは、そのためです。食べないためには忍耐がいるのです。

ここで大事なことは、塵を集めた器に「神自身の命」を吹きこまれたということです。器だけで、生きているのではない。

最初の人は「自分がどこから来てどこに行くのか」知らなかった。
人は裸だったが、裸であることを知らなかった。命を受けても、命があることを知らなかった。霊と水。
神の掟を守って、天上に留まっていた。これが、人の原点です。

この世は闇に支配されている

地上の私達は、天地を知らない。それなら地上を知っているかと言うと、それも知らない。
何も知らない。
本当に知らなければ罪はなかった。
しかし、知らないのに知っていると語るようになったから、罪が生じたのです。

闇に属すと死ぬ。そうならないために光が照らしているのですが、人は光を求めない。

肉から生まれたものは肉です。
肉は、父親と母親から生まれる。そこに、神などおられない。
肉は、誰からの命令も受けず、自由に語る。そこに、神などおられない。
なので、この世が神を信じることなど、不可能に近い。
今までの知識や肉など一切を捨てないと難しい。この世の命を捨てないと難しい。この世の理屈・常識をすべて捨てないと難しい。

この世を離れたくないのです。だから、死は仕方がないものとして、諦めている。
光より闇を好むからです。
見ても見えず、聞いても聞こえない。生まれ変わるしかない。

私達は今、自分では生きていると思っていますが、実は死んでいるのです。
闇の中にいることは、死んでいるのに等しいからです。
イエスは言われた。「神は死んだものにも命を与えられる」
つまり、私達は死んでいるが、一時的に生かされている。死んでいるのですから、放っておくと、元の死に返されてしまう。
仮の世界に入って、仮に生きている。しばらくの間、灯で生きていますが、しばらくすると灯は消えてしまいます。

何故、しばらくの間だけこの世に連れて来られるのか?

自分の命を捨てるためです。それによって、「永遠の命」に至るからです。
死なないと生きない。消える灯を光に移すためです。
自分のものなど一つもない。自分の命ではない。神のものは神に返すべきです。
父の家にいるものは、いつもそこにいます。

しばらく、この世に光が来ています。闇を照らすために。
イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなた方の間にある。暗闇に追い付かれないないように、光のあるうちに歩きなさい」
私達がしばらく生きているのは、光がしばらく留まっているからです。
闇に留まるなら、「この世を去っていく=死」となる。

光はいつもあります。ただ、この世には、しばらくしか来ない。
この世は、真理の中にないからです。
だから、このしばらくの間に真理に属しなさいと、今、叫ばれている。
死んだものがこの世に来るのは、このためです。今がその時です。

イエスは言われた。「わたしは父のもとから出てこの世に来たが、今、この世を去って、父のもとに行く」
命があっても命を知らなければ、命は無いことになる。もし命を知っているなら、神をも知ることになる。
神は生きているものの神だからです。死んでいるものに、神はおられない。
直接、神を知ることなどできない。だから道を歩いて神に至るのです。道とは、「わたし」のことです。命の木です。私達は枝です。

これらは、イエス・キリストの死から学んだことです。「わたし」(命)を信じなければ、死んだまま、闇のままです。罪は残ります。
闇はあまりにも深い。

イエスは言われた。「フィリッポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。・・・」

「わたし」を知るということが、簡単でないことがよく分かります。
「わたしを知っているなら、父をも知ることになる」からです。

「こんなに長い間」とは、この世(時間と空間の世界)では、イエスとフィリッポが一緒におられた、或る一定期間を指します。
ところが、霊的に捉えるなら、「わたしはフィリッポの内に、ずーと永遠に一緒にいるではないか。どうしてそれが分からないのか」と仰っているのです。命が叫んでいる。
つまり、「こんなに長い間」というのは、永遠を示しているのです。ただ、永遠は、隠れたところにあります。
この世は、イエスが去ると、もはやイエスを見ない。生きておられても見えません。

大事なことは、これは単にフィリッポだけに語られているのではなく、全ての人に語られているということです。イエスの言葉は霊であり、命だからです。
イエスは、ある地域で、ある時期に、ある時間、活動された。これは、現れだからです。
しかし、その言葉は、時を超え、場所を超え、全ての人一人一人に語りかけておられる。これは、隠されています。
現れたものにおいては個々に特定されますが、隠れたものにおいては普遍だからです。
だから、どんな人もこの言葉を自分の内から聞いて、信が深まるのです。肉の耳から聞くのではなく。
この世からすると、大変不思議に思えますが、受け入れれば、分かるのです。
聖書全般、受け入れずに分かることなど一つもありません。
聞く耳があるものは聞きます。本当に小さな芽でも、育てれば大きく育つ。

「しばらく」という風に、この世では時間があります。命にも時間がある。語る言葉にも時間や長さがある。

何故、時(とき)の「たとえ」を用いて語られるのか?
それは、「わたしがどこから来てどこに行くのか」を学ぶためです。
霊だけでは分からないからです。霊と水、天と地、光と闇、父と子など二つに分けられて語られるのは、ただただ、一つに導くためです。
神と言葉も分かれていない。分けて語られるのは、分けないと人には理解できないからです。
言葉で理解する場合、その言葉を通して、命まで見ることができるかどうかです。
分かれて見えるものが、分かれていないことを知るのは簡単ではない。
その間が見えないといけないからです。
わたしがつながっていないと、他の全ても切れてしまうのです。
しばらくを永遠に移すには、真理の道を通らないといけない。
真理は信じて分かる。つまり、分かるために信じる。最初は知らない。知らないものが知るに至るために、今天地にいる。

イエスは言われた。「父の内にわたしがおり、わたしの内に父がおられる」
これには、時を感じない。天地創造以前から「わたしはある」からです。神は御自分の内に命を持っておられるからです。
これは、理屈抜きで、最初に信ずべきことです。ほんの少しなら、感じることもできますが、すぐに自分の家に戻ってしまいます。

イエスは言われた。「わたしは父のもとから出てこの世に来たが、今、この世を去って、父のもとに行く」
これは、時と場所の形で、「出る」とか「去る」とか「行く」とか表現されていますが、命について語られている。
イエス自身のことを言われているが、それを聞くものは、そのまま自分のことだと悟る。
たとえが真理に移る。光が自分の内に入りこむ。
言葉は神から出るが、その言葉も神だからです。これを知って神に属す。
これに対し、
土の塵にすぎないものは塵に返るだけ。父のもとには行けない。

「わたしはある」は永遠の命・真理で、神を言葉によって証したものです。
「わたしはある」を直接知ることはできない。だからこそ、神のもとから出ていったのです。
神から出て、時と場所の世界の中に入って、導かれていくのです。

「わたしはある」は、不変の真理です。なので、実際には、神から一歩も外に出ることなどできません。
ただ、私達はその真理を本当に知ってはいない。
「神から出る」というのは、どこから来てどこに行くのか知らない私達を真理に導くために、「時と場所」の表現で説明されるからです。

時と場所を通して、信仰と忍耐でもって真理を知るものとなった時に初めて、最初から「わたしはある」ということを悟る。
最初は知らない。最後に知る。そのために道をまっすぐにしないといけない。
「時や場所」は、知らないものが知るものとなるために用意されたのです。
「わたしはある」をはっきりと知るまでは、ただ信じるしかない。

たとえを用いて語られる

「たとえ」は、たとえなしで、はっきり分からせるために語られる。
イエスを見て何を見るのか。まさに神のなさる業を見ている。
神もイエスもたとえを用いて語られています。聖書もたとえを用いて書かれています。
知らないものには、たとえを用いて導こうとされるからです。
神が光と闇に分けられたのもそのためです。天地は導くために造られた。

もし、「たとえ」がたとえだと本当に分かるなら、たとえで終わらない。
「たとえ」は、そのまま「真理」に移るからです。今の命がそのまま永遠の命に移る。
たとえというのは不思議なものです。簡単ではないが、「時間と空間」を破ることができるからです。肉は必要なくなってしまうからです。
しばらくの命をよくよく見るなら、そこに、永遠の命を見つけることができるのです。
人は神に似せられて造られた。だから、似た「たとえ」で導かれる。
もし、似せられていなかったなら、導かれることすらないでしょう。
ただ、似ているとはいえ、随分離れています。

命は言葉でもある。言葉を語ることで生きるからです。
神と言葉と言われたり、霊と水と言われたりします。
神は御自分の内に命を持っておられる。
私達の命は、そこから来ていて、つながっています。
私達が、「わたし」と語る時、神から出た「わたし」、神から遣わされた「わたし」でないといけないのです。
地上で繋いだものは、天上でも繋がれる。

聖書は「わたし」について書かれています。
「わたし」の最初から最後までが書かれています。
わたしの内を覗けば、天地創造の過程など、来た道の全てを見ることができるのです。時は横に流れているのではなく、わたしを縦に突き抜けているからです。
もはや、時とは言えない。
わたしの中を流れている命を途中で止めてはいけない。自分の闇が止めている。道を整えるべきです。
真理への道は信仰による。「わたしはある」とはっきり言えるまで続く。

ほんの少しの豆粒ほどの信仰でも、それなりに力を得ます。奇跡のような不思議なことが起きます。全く何も起きないのは、信じていないからです。

【補 足】
私はどこの教会にも属するものではありません。
若い頃から聖書に惹かれてよく読んでいます。
頭で理解することは難しいが、受け入れてしまう自分がいます。