田舎と都会のコロナ意識


今のところ、コロナ感染を完全に防ぐことはできません。
なので、現在は、医療体制を万全にして、重症者があふれて医療崩壊を招かない範囲で、経済活動を維持していこうとしています。
しかし、放っておくと、感染者は確実に増えていく。今のところ重症者・死者の数は少ないが、爆発が重なると、コントロール不能に陥り、検査すら役に立たなくなります。
「重症者の数が少ないから、たとえ感染者の数が多くても問題はない」という考え方は結果論であって、明日を決めるものでない。

感染を広げない意識や行動は、コントロール不能に陥る前の今の段階でこそ必要。
制御不能になってしまうと、いくら対策を施しても、もはや後の祭りです。
PCR検査より感染のスピードが速いと、検査の意味も無くなってしまう。

宣言解除後は、医療関係者に頼り切っている感じがしないでもない。
三密回避はどこにいったやら。喉元過ぎればなんとやらです。専門家会議はどこに?
テレビやマスコミで危機を煽られ、悲惨を目のあたりにしないと、本気で自粛しようとしない。せっかく学んでもすぐ忘れてしまう。

自己責任とか自由という言葉の意味は、人によって捉え方が異なるため、誤解を生みやすい。田舎と都会を比較して書いてみた。分かりやすくするために少し誇張して書いています。

地方の本音君が言った。
東京は東京でちゃんと解決して欲しい。地方にコロナをばらまいてくれるな!
東京の人はこちらに来ないでほしい。

建前君が言った。
地方の人が東京の人を来ないでと言うのは、差別だ。
東京の人がみんなコロナに感染しているわけじゃないし、かかりたくてかかっているわけじゃない。
誰だってかかる可能性があるんだ。責任なんか一切ない。日本を分けるな!プライバシーを守れ!

本音と建て前

コロナの感染拡大を抑えるという点では、本音君の意見の方が役に立つ。
各人の自粛によって防げるなら、それに越したことはない。自己調整機能で。
ただ、自粛しない人が増えてくると、癌化してきます。すると、自律回復が難しくなり、強制治療しかなくなる。
癌化して、自己治癒力で直せない場合、手術が必要となる。手術が遅れたら手遅れとなる。
自由やプライバシーなどと言っている場合でなくなる。癌が全体を侵してきたら。

憲法12条には、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とある。
公共の福祉のための自由の制限は認められています。

「自由の制限」と捉えるのではなく、本来の自由というのはそういうものなんです。
自由とは、「心の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず」(孔子)に近い。
自分勝手とは異なります。

決して地方の人が東京の人を差別している(見下している)ということではない。
コロナウィルスがどこにいるのか判別できない現状において、東京に感染者が多いのは確かなんだから、大雑把に東京の人を避ければ、感染が防げるだろうという風に思うのは何らおかしいことでない。
もし、東京が地方であったなら、東京の人だって地方の人と同じように思うはずです。
東京の感染者がこれからどんどん増えていったら、少し抑えていた本音君の意見が再び表に噴出してくるに違いない。

いつも、危機の時は、本音君は建前君よりも強いんです。
平時は、本音をオブラートに包んで建前で生きているだけなんだから。

命は経済より大事だと騒いでいた人が、最近、その声が小さくなったのは何故でしょう。状況次第で人が変わるというより、状況次第で関心が変わっただけです。
水不足になると、水は大事だと痛感するが、水が豊富だと誰も水に関心など持たない。それと同じ。

田舎は自己責任意識が高い。

なので、自分から危険な場所には行かないし、自分達で自分を守ろうとします。
あまり、お上を当てにしたり、お上が悪いからだとか言わない。
この私も、「自分のことは自分で守る」を基本にしています。とは言え、助けていただかないといけない場合が出てくるかもしれない。その場合には感謝しかない。
自分でできることは自分で行い、自分でできない人には手を差し伸べる。これは、ごく自然なこと。
できるのにしないで、助けだけを求めるというのはおかしい。

感染するのは自分の責任だと思うぐらい、自分に厳しくしている。周りに迷惑をかけたくないからです。一概にこれが間違いだとは言えない。
良くも悪くも、田舎は世間体を気にする。世間様があって自分がいるという意識なんです。

だから、その分、東京には手厳しく言うわけです。
自分で注意していても、感染したなら仕方がないと田舎の人も思っています。
その反面、もし自分が感染したら周囲から何を言われるか分からないという恐さも感じている。

田舎で感染すると、周りにすぐに知れ渡ってしまうので、誰がどこでうつったのかすぐ分かってしまう。プライバシーもあったもんではない。お店は自ら先に公表した方が得なんです。
少しきついですが、その分可視化が進むので、感染の防御に効果がある。

東京では田舎ほどに周りを気にしないで比較的勝手に振舞える。しかも、プライバシーの主張も強い。東京と地方では、横のつながりが随分と違うんです。
田舎のように、東京も慎重にやってくれと、田舎の人は言いたいのです。

ただ、東京は個々の人がバラバラで共同体意識など育まれていません。だから、田舎と違って自律制御が難しい。世間もなければ、連携もないので。
強制的な制御しか選択肢がなくなってきます。

地方の人は都会よりも余計に気を遣うので、感染が少ないし、広がらない。まあ、クラスタになるような密な場所が少ないことも大きいが。
田舎には、村八分と似たような面もありますが、これがすべて悪いというわけではない。村の秩序を守るために必要だった部分もあると思います。
祭りや行事に参加しないといけない煩わしさとそれらに参加した時の喜び、この二つが入り混じった心境が共存しているのが現在のようです。
隣は何をする人ぞ、という都会感覚ではない。でも、少しづつ変わりつつあるのも確か。新し人(よそ者?)が入ってきて、自治会に入らない人が増えてきているし、自治会がないところもある。村意識は薄れつつある。

煩わしさを避ける傾向が高まっています。自分で放っておいてくれと言っておきながら、危機の時にはやたらに助けを求める。なんかおかしくない?

風邪をひかないためには、自分の体調管理をしっかりしないといけない。まず自己管理です。
ひいたら仕方がないですが、日頃ひかないように注意することも大事なんです。
完全に防ぐことはできないが、防ごうとしないともっとかかりやすいんです。

自己責任、自由、無責任、差別という言葉は、非常に曖昧に使用されています。だから、誤解が生まれる。
微妙なニュアンスを言葉で表現するのは難しいんです。
ここでは分かりやすくするために、田舎と東京に分けて誇張して書いています。
厳密には、田舎にも色々あるし、東京の中にも田舎部分もありますので、ひとくくりで語れません。誤解のないように。