原因と結果


原因というのはいつも分かりにくいものです。

というのも、結果があってから原因を探ろうとしますが、その場合、頭を使ってひねり出そうとするためです。
頭でひねり出した結論は、真実かどうか分かりません。
ひねりだした原因は単に蓋然性にすぎない。後から導き出したものは、やはり、後のものでしかないからです。

いくつもの条件があって、そこにある力が働くと、こうなるという仮定のものでしかない。
いくつもの条件が変わらなければという仮定の下に導き出されたもの。
特殊な「場」(場所)においてしか成り立たない。つまり、普遍性がない。
現実においては、構成要素は無限にあるため、複雑すぎて人の頭ではとても把握しきれない。
しかし、人は解明できないことに満足できないので、無理矢理、要素を単純化して解決しようとします。そうすると、こぼれるものが必ず出てきます。

今日会社に行った。だから、明日も会社に行くだろうと予測します。
今日苗を植えたから、秋には収穫できるだろうと予測します。
大きく変わらなければ、確かにそうなります。しかし、病気になったら会社に行けないし、洪水にあったら収穫はできない。
こういう事象が起きると、人はたまたま異例な事象だとして片付けてしまうんです。
「仕方がないや」とあきらめて、自分を納得させてしまうことが上手なんです。
人はすべての要素を把握することはできません。なのに、できると信じている人は多い。
明日も会社にいくというのは、大抵は当たりますが、ずーと当たり続けるわけではない。計算外は必ず起きます。
人は今こうだから、また、過去はこうだったから、未来はああなるであろうという蓋然性の中で生きているだけです。
何の根拠もないし、ましてや、その根拠すら知らない。

「場」というのが前提として仮定されている。
地球上で当てはまることが宇宙で当てはまらないことが分かった。
そうして、ニュートンからアインシュタインに移っていった。
頭で導き出した理論が変わったたけで、実体は何も変わっていません。
真理に迫るというのは、それほど難しいことなのです。
ある仮定が複数の検証によって証明されたとしても、それが絶対と言い切れない面があります。
一つ異例なことが起きれば、その一つの理論は覆る。すべてを網羅することなど不可能なのだから仕方がないんです。

真実はいつも藪の中。原因も藪の中なのだから、予測も藪の中。アバウトなんです。
頭ですべてが解決できるほど人の頭は賢くない。
導いた理論や予測が、絶対ではないことを知りつつ、それを上手く使っていくことが大事なんです。
人は蓋然性の中で生きています。人は人なりの認識可能領域があって、そこに閉じこめられている気がします。