霊から生まれたものは霊であり、どこから来てどこに行くのか知らない。
生まれた霊(わたし)は何も知らない。霊であることすら知らない。
「知る」にはどうしても言葉がいる。「わたし」はまだ言葉を持っていなかった。
言葉を持って、初めて「知る」ということが起きる。
しかし、「知る」に至る道には、二つの木があった。善悪の知識の木と命の木。
同じ「知る」でも、真理・命に大きな差、天と地ほどの違いがあった。
神は存在であり、かつ言葉です。神の霊は、それ自身で生きておられます。
ところが、生まれた霊はそうではなかった。言葉・命を持っていなかった。
つまり、生きていなかった。完全なる死の中にあった。
霊であっても霊であることを知らず、闇しかなかった。
存在していても、存在していることを知らないなら、生きているとは言えない。
存在していても、何も支配していないなら、生きているとは言えない。
たとえ、存在していても、存在を証するものがいないと、存在しないことになります。
「わたし」は最初から霊として「ある」のですが、そのことを知らなかった。
「わたしはある」ということを知らなかった。
神は、「わたし」にそのことを知らしめようと導かれる。霊と真理において。
天地創造以前から、「わたしはある」ということを。
証するために、わたしは天地(言葉の世界)に連れてこられた。
「わたし」がわたし自身を知ることができるようにと、「わたし」に命を与えられた。
霊から出たわたしは、霊のところに戻らないといけない。「わたしはある」を知って。
元々そこにいるのだから、真理を携えて戻らないといけない。
光を持たないと、出たままとなって戻れない。知らないままで終わる。
霊からゴムが伸びて飛び出ます。そしてゴムは縮んで霊のところに戻る。
もし、ゴムが壊れたら、切れてしまって戻れなくなる。
戻る時は、神々しくなって戻ることになる。
存在は存在から出てきた言葉によって証される。
言葉は神と共にあるからです。
「わたしはある」ということを受け入れるなら、わたしは父の内にいます。
最初からあった真理を、最後に知る。最初は何も知らない。
何も知らなかったものが、最後に知るものとなる。その後、天地は滅ぶ。
天地は最初があり、最後がある。
真理に至るには、時という「たとえ」を通らないといけない。