ピラトは言った。「真理とは何か。」(聖書:ヨハネによる福音書より)
相手の身になって考えるということは大事です。
ただ、それによって相手を完全に理解できるか言うと、残念ながら理解できません。
そこそこの理解で十分なんです。
理解というのは頭で行いますが、頭には完全理解するほどの力がないからです。
相手とよく話し合えば、相手に関する知識は確かに増えます。
ただ、その人のことは、その人になってみないかぎり、完全な理解は得られません。
その人になることなどできないのだから、完全理解は不可能なんです。
アリのことを研究して、たくさんの知識を得たとしても、最終的には自分がアリにならない限り、アリの気持ちも分からない。
つまり、知識には限界がある。
例えば、AさんがAさん自身についてよく分からないと感じている場合があるとします。
こういう場合、万一、私がAさんになり切れたとしても、やはり、Aさん自身のことが分からないというのは変わりません。
つまり、仮に相手になり切れた場合でも、完全な理解が得られるかと言うと、そうでもない。
客観的に捉えようといくら努力しても、無理があるんです。
理性・知性の限界を知るべきです。人間は思っているほど優秀ではない。
★知識は生活する上で大変役に立っています。
ただ、知識によって、「真実」が理解できるかというと別問題です。
「役に立つ」ものを「真実」にまで格上げすることが無謀なんです。
人の能力には限界があるということ。それを知って謙虚になれる。
客観的な知識は、客観に留まっているかぎり、完全な理解には至れない。
主体と客体は本来は一つ。一つでは真理が分からないので、二つに分けられた。
★自分が正しく、他人が間違っていると思うことは妄想。
こんなことを言うと、「お前は頭がおかしいのか」と言われそうですが。
★ピラトはイエスに向かって言った。「真理とは何か」と。
ピラトは、目の前に真理を見て聞いているのに、見えず聞こえなかったのです。
★多様性というのは、理解を超えています。認める以外ない。
しかし、人は違いを差別に置き換えたがるんです。違い→差別。