智に働けば角が立つ。情に棹させば流される

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」 <夏目漱石の「草枕」>

知・情・意の三つを表現したものです。
この三つの内のどれに傾いても、色々と問題が生じてきます。これは、今もまったく変わっていませんね。
最近、角が立った発言が多いのでとり上げてみました。
危機の時こそ、人の本性が浮き彫りになる。今、目を開いてよく見ておくといいでしょう。

明治の初期は、海外から個人主義が輸入されて、個人が少しづつ強くなってきた時代です。
漱石もイギリスに留学して、日本に知識を持ちかえりました。
自分の主張を通そうとすると、旧来の考え方と相容れないことが多く、かなり葛藤があったと思います。
その悩みが小説に駆り立てたのかもしれません。

【蛇足】
随分昔、私が学生だった時、文豪 泉鏡花の家の前の道路を挟んで反対側のおうちに下宿していた時があった。書生部屋というのがあったんです。
そのおうちのおばあちゃんが明治の女学生だった頃、漱石の小説が当時の女学生に大変な人気だったと仰っていました。
そのおばあちゃんの御主人は、泉鏡花のかかりつけ医でした。
泉鏡花の娘さんから声をかけられて、鏡花の家に上がらせていただいたことがあった。懐かしい思い出です。
娘さんは大学で文学を勉強されていました。

知・情・意とはっきり分けられるものではない。知だけ、情だけ、意だけというのは、ないでしょうから。
あやふやなものをいくら細かく定義とか分類しても、あやふやはなくなりません。大元があやふやなんだから。
つまり、言葉で遊んでいるようなもの。空虚な言葉が独り歩きしていることが多い。今の風潮と似ています。
「物言えば 唇寒し 秋の風」(芭蕉)を私は勝手に自己流に解釈して、「言葉を出した途端に真実が逃げていく」という意味にとっています。心で感じ取ったものを言葉で表現しきれない寂しさがあります。

個人主義と利己主義は本来異なるものです。
差別は本来違いを示すものでしたが、いつの間にか、差別は人権用語として使われるようになった。これと似ています。
違いは個々の特性であり、いいものなんですが、人を差別すると言う時の差別は、悪い意味に使われています。
個人主義には利己が入っていません。ただ、現実において、殆ど利己のない人はおられないので、個人主義も利己主義も同じように捉えられてしまうのも分かる気がします。

知・情・意が引き起こす問題を解決するものはただ一つ、愛とか思いやりです。無条件な愛。
知・情・意のように分けたところから始めるから、おかしくなるのです。
そうでなく、それ以前の愛とか思いやりから始めるなら、そこから自然に発露された知・情・意はまともなんです。
まともですが、それが人に受け入れられるかどうかは別です。
たとえ受け入れられなくてもいいんです。本当の愛とはそういうものだから。
真・善・美も同様です。分かれているうちは本物ではない。