その時の是非は「歴史が証明する」とよく言われます。
しかし、歴史にそんな力などありません。
事実はあっても、それを評価するのは、後の人。
後になって、後の人が勝手に都合よく解釈するだけで、とても証明なんかにはなりません。
「痛い目に合わないと分からない」
これは、頭では分からず、体験でもって初めてつかみとるからです。
かなり言い当てています。
「大丈夫だ~」と言っていると痛い目に合ったりする。そして、分かる。
失敗しないと学ばない。悲しいかな、これが人です。
それでも、体験しても分からない人、忘れる人、学ばない人はいるものです。
事実と評価は全く別。人の評価能力は、そもそも当てにならない。
現実を理解するというのは、本当に難しいことなんです。
たとえ専門家であっても難しいんです。
いつも理解は後なんです。ところが、その理解すら怪しいんです。
事実と理屈(卵が先か鶏が先か?)
まず起きる。
なぜ起きたのかと考えて、後で理屈付けされる。
法則も同じ。
先に起きている。理屈によって起きているのではない。
理屈は頭の中の解釈・推測。事実・現象は考える前に起きている。
その事実の後、理屈が行動力となって、また事実を変えていく。
なので、実際のところ、事実と理屈については、明確には分離できない。
理屈の真偽を正確に証明することは難しい。証明できたと思っても。