間を見る


客観的に語られる人は、理知的に見えがちです。
しかし、客観化すると、自分とはちょっと切り離してしまうところがある。
なので、非常に冷たい気がしたりする。
理知的な人は冷めている感じがしますが、そのためです。

客観的であればあるほど、対象を「全く別なもの」として捉えてしまう。
石ころを見るように。
ここで、冷たさが生じる。知の恐い部分です。

数字もそうです。
最近、コロナで死亡率とかが語られますが、なんとなく冷たい気がします。
他の国と比べて、我が国の死亡率が低いと、何か喜んでいいみたいな雰囲気が醸し出される。数字の魔術に引っ掛かる。
生きている人にとって、死んだ人や被害者は、悲しいかな、客観的な出来事になってしまう。
これは、互いに直接のかかわりが少ないから、感情移入が起きにくいからです。

厳密に言うなら、自分の死でさえ、死ぬ瞬間までは客観です。思考は客観的に捉えて加工する働きをする。自分の死を直接捉えられない。

他者のことを可哀想と言っても、どれぐらい本気でそう思って言っているのか疑問なんです。
死亡率が悪いのであれば、絶対数ならいいのではないかと思えますが、そうでもない。
数字は抽象的で、心が入っていない。やはり、冷たいんです。

基本的に、知らない他人に対しては冷たい。距離があります。
この世では、これが当たり前なんです。
世界の不幸を全部背負っていたら生きていけません。
かかわりが少ないのに親しみを持てと言われても、現実的にできない。

やはり、近場の人とかかわるのが一番です。今のこの場所が大事です。
今ここでしていることが、明日や世界につながるからです。
ネットだけで、遠くの知らない人とかかわっても、夢の世界にいるようなもの。
自分の近場の人を大事にすることで十分なんです。
別に国際的である必要はない。恰好を付ける必要もない。仮想の世界に入る必要もない。
友達同士間なら、そんな率や数字などいりません。互いに喜び悲しみあうだけです。
そこでは、私とあなたの間の壁が崩れ、一つになれる。もはや他人と言えない。

主体は客体に働きかけて、生きている。
しかし、同時に、客体も主体に働きかけています。
主体と客体に分けて語りますが、主体と客体は、一つとしてつながっている。

人間という漢字には、「間」があります。
大事なのは、その間なんです。間を切り裂いてはいけない。
間をなくしたら、ただの空間で区切られた肉でしかないんです。