ど素人による新型コロナ雑感

私はウィルスの知識も感染症の知識も全く持っていない。ましてやコロナの知識もほとんど持っていない。
以下は、全くの素人の感想なので、適当に読んで頂きたい。

感染

風邪が人にうつるということは知っていました。そして、感染は止められないものだと何となく思っていた。
風邪をひいたらマスクをして薬を飲むくらい。熱が高ければ休むしかなかった。
今回の新型コロナでは、人為的に感染速度を後らそうとしています。死に至る率が高いからです。この方法は画期的と言えば画期的に思えるが、動物の本能的な動きからきています。
「感染を止めること自体は難しいが、遅らせることはできるんだ」ということを今回、頭の中で確認しましたということです。
感染はこのようにして起きるんだということをぼんやりと分かった気がした。

ポイントは密。

分かったことと言えば、密なところで感染しやすいということぐらいだった。非常に曖昧な表現ですが。

なので、対策と言っても「恐いものに近づくな、離れろ」という動物的な本能に近いものだった。
そして、今回、それが一番功を奏した。他に役立つ知識はあまり無かった。過去の学習が役に立たなかった。

確かに、私が住んでいる田舎では感染が広がらなかった。密が少ないので、感染しても広がらない。単発で終わってしまう。爆発しません。
広がるところは、大抵が密な都市。
ウィルスは、夜の歓楽街や密な場所を温床にして増えていくようだ。
そもそも田舎には、こういうところが少ない。田舎では、夜8時頃になると外に出ている人は少ない。反対に、都市では8時ごろから夜の街に人が群がってくる。
田舎と都会では、密の質や度合いが全然違う。
海外でも、「密を求めたがる人」と「密になれる場所」が揃っている地域ほど、感染がひどいように思います。

感染危機に気付くまでの時間と危機感の共有

気づいた時には遅かったという場合。これは既に爆発しており、簡単に止められません。
早く気付ければ、危機感が生じ、対策が打てる余裕が生じる。
日本の場合、最初、少し離れたクルーズ船で起きたのは、幸運だった気がします。もし国内で生じていたら爆発しただろうから。
危機感の共有は、少し離れたクルーズ船のおかげで養われたように思います。コロナの力を学ぶ時間があった。
出だしチョロチョロがよい。対策が打ちやすいから。いきなりドカンはパニックになって、策の効果が薄まってしまう。

未知なものには、人は無力

知っていること、過去に経験していることは、それでもって対処できます。
しかし、未経験のものに対しては、学習してないのでどうしようもない。学習は後で行われるためです。
過去の経験が殆ど役に立たない。無理に過去の学習を適用しようとすると、余計に悪化したりしてとんでもないことになる可能性がある。
専門家の意見や予測がことごとく外れているのはうなづけます。誰も知らないのだから。
誰も知らないのだから、誰かを非難しても仕方がありません。自分しか頼りになるものは無いんですが、その自分も頼りないんです。

不安を煽るマスコミ報道と偽情報の伝播

不安ばかりを煽るマスコミ報道には全く嫌気がさすほどです。

しかし、よく考えてみると、マスコミが異常なほど不安を駆り立ててくれたおかげで、人々は委縮して外出しなくなり、収束に向かっているという面がある。おかしなもんです。

これでもかこれでもかと悲惨な出来事を見せつけられないと、人は自分のことのように思えないのです。

また、事実かどうかわからないのに、あたかも事実であることを前提にしたような議論が飛び交っています。
偽情報を多くの人が信じると、真の情報に変わってしまうかのようです。
知らないうちに間違ったことを信じてしまうこともあるし、最初から悪意のある情報操作を行っている人もおられます。
余程しっかりしていないと、つい巻き込まれてしまう恐れがある。
もとより、科学がすべてを究明するとは私は思っていませんが、それでも、とんでもない偽情報よりは大分ましな気がします。

敵と味方に分ける二分論。これは、日本の風土に合っていない。
本来、曖昧なんです。曖昧を批判する人がいますが、わたしは曖昧が好きです。
事実は揺るぎなきものとしてあるはずなんですが、事実を語る時に、その事実が歪められることが往々にしてあります。