開店休業状態

スイカ
私が作ったスイカやかぼちゃ
うちで採れた丹波栗


今は、開店休業状態ですね。
バッタリ仕事が途絶えた。教室もガラガラ。パソコン修理もほとんどない。
毎日、暇、暇、暇。
暇もいいんですが、時折仕事があった方がハリがあっていい。ダラダラは一番いかんなあ。

本業が不振なので、今月は、ずーと畑仕事に専念してきた。
栗を自分で拾って、モルモットパソコンYahoo!店で販売してきた。
うちの栗は結構人気なんです。少しの量しか採れませんが。
採った栗を温湯処理で虫を殺して、それから一個一個栗を拭いて綺麗にして出荷しています。
結構手作業が大変だった。
しかし、それも終わった。今は何もすることがない。
まあ、パソコン教室は一人でやっているので、潰れることはありません。
潰れる時は、私が潰れた時かな。

今は、たまに畑に行くことが楽しみ。
健康のためにもなるしね。動けるうちは動かないかん。
畑に行くと、草刈りや次々と仕事があるんです。雑木を切って燃やしたりとか。
小豆が収穫時期に入った。大根や蕪(かぶら)も成長してきた。嬉しい限り。
柿は富有柿はカラスの餌で、皆突っつかれている。
美濃柿が熟してきた。これの好きな人が何人かいて、その方々に分けてあげています。
トロトロの熟々で、ものすごく甘い。スプーンで食べると文句なしなんです。

また、取り留めのないことを書いてしまった。
暇なもんだから許して。

聖書に書かれている「命」とは


聖書で学んだことを書き記しました。私の精神の記録として。
直観に基づくものが多いので、間違いがあるかもしれません。霊的なものは、霊と真理でもってしか分からない。肉は何一つ理解できない。
神を全く信じない人にとっては、聖書は嘘でしかないので、このブログを読んでも何も得られるものはありません。

聖書に書かれている命とは、永遠の命、「わたし」のことです。

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である」
イエスは言われた。「わたしを知っているなら、父をも知ることになる」
イエスは言われた。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」

つまり、私達が普段語っている「わたし」や「命」とは随分異なります。
これは、私がわたしを知らない、命を知らないということから起きます。
本当のわたし、自分自身を知らない。これが根本の闇です。
詰まるところ、「知る」、「知らない」にかかっている。

霊から生まれたものは霊であり、自分がどこから来てどこに行くのか知らない。
これは、肉も同じです。
聖書において「知る」とは、わたし自身を知ることなのです。

何故、「わたし」が生まれたのか?

「ある」にはあっても、証するものがいなければ、「ある」ことすら分からない。
だから、「わたし」が生まれた。真理を証するために。
これは、天地創造以前のことです。
神が唯一であるように、この「わたし」も唯一だった。

ところが、生まれた「わたし」(霊)は何も知らなかった。どこから生まれたか知らなかった。霊であることなど知る余地もなかった。
父と子の関係は、この時から生じたのですが、子は子であることを知らなかった。
まさに、「わたし」は、ここから始まった。
この時、「わたし」は言葉を持っていなかった。なので、「わたし」というはっきっりした自覚がなかった。

知るためには、いったんそこから出ないといけない。
そして、出ていったところから見て、出たことを知って、戻っていく。
出ていったきりだと、そこから出たことを知ることはできない。

ここに、「知る」ということの本質を見る。
すなわち、神の口から言葉が出ますが、言葉も神であるからです。
「わたし」として出て行くが、その「わたし」は、最初から神と共に「ある」からです。
これが、「わたしはある」であり、永遠の命です。

霊から生まれたものは霊であり、自分がどこから来てどこに行くのか知らない。肉から生まれたものも同じです。
霊だけ、肉だけのものは、真理(命)を持ちえないからです。
「知る」とは、まさに、真理(命)を持つことにある。
「わたしはある」ということを知ることにある。
これは、わたしが完全に神の中に入ることでもあります。
真理においては、いつも入っています。だから、真理通りに入らないといけないのです。

神の霊を、人の言葉で正確に表現できない。しかし、似た「たとえ」を用いてならできるのです。
人は神に似せて造られたので、「たとえ」を理解する小さな芽を持っています。
それ故、神は、知らないものに対し、「たとえ」を用いて導こうとされる。
神の業によって、隠れたものを、現わして、見せようとされる。
神のなさる業を見て、わたしも同じようにそうするために。そのために、出た。
こうして、出たことを知って、つながる。元に戻ってくる。
見ても、それによって自分自身を見なければ、見たことにならない。
これは、鏡がないと、自分の顔が見えないのと似ています。

天地の創造

闇しかなかった。だから闇に属した。これは避けようがない。
水の面を神の霊が動いていた。
しかし、闇で見えなかった。
霊の内にいたのですが、そのことを知らなかった。

「わたし」は、言葉を持っていなかった。「知る」には、どうしても言葉がいる。
だから、光が入って、闇を照らした。神は光と闇に分けられた。
分けることで、天地創造が始まった。光があり、闇があった。
世界を造り、人を造って、人に言葉を与えようとされた。世界がなければ、言葉を語れない。
すべては、何も知らない「わたし」のために、次々と加えて与えられていった。
これが天地創造の過程です。
与えられたものでもって、与えた方を知るようにと、そうされた。
神の霊を直接知ることはできない。だから、与えられるのです。
「知る方」は、神以外におられない。なので、神によって教えられるようにと、そうされた。

「わたしは、元々、何も知らない」ということを学ぶことは大事です。
「知る」とは、全く知らないところから始まって、最後に知るということ。

真理はいつもあります。しかし、隠れているので、直接知ることができない。
隠れたものは、現わされないと気づけない。
それ故、神は光と闇に分けて、天と地(言葉による世界)を創造された。
「わたし」は、様々な場所へ連れていかれる。そして、今、ここにいる。

天地は、最初があり、最後があります。
これは、最初も最後もないものを知るためです。

天地創造の6日目に人が造られた。
天地万物は完成された。これが天上の体。隠れている。
しかし、この時、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。

天地が完成した後に、地上の土の塵で人を形づくり、そこに命の息を吹き込まれて人は生きるものとなった。これが地上の体。現わされた。
「わたし」が「わたし」というはっきりした自覚を持ったのは、この時です。
言葉を語ることで、自覚するからです。

隠れたものを現わされた。神のなさる業を見せるためです。
神のなさる業を見て、人もそうするからです。
神のなさることを、人に任せようとされた。

「知る」には、二つある。「命の木」と「善悪の知識の木」

「知る」に至る前があります。元々、人は何も知らないところから始まったからです。
最初の人は天上にいた。裸だった。しかし、裸であることを知らなかった。
まだ、霊も肉も着ていなかったが、恥ずかしがりはしなかった。
神の言葉を受けて、地上に向けて語っていた。本当に無垢だった。罪がなく、死がなかった。
人は命を与えられて、神の言葉を聞いた。命とは、本来、そういうものだから。

人は、「わたしの骨の骨。わたしの肉の肉」と語ったが、そのわたしは神と共にあった。
つまり、その「わたし」は、今の私たちの「わたし」とは違っています。
私は霊でもなく、肉でもなかったからです。その間にいた。
当然に神の言葉を聞き、当然に生きていた。これは「知る」以前です。
当たり前すぎると、有難みや魅力を感じない。もの足りなさがあった。
人は生きるものとなったが、その人自身においては、生きているという認識がなかった。
これは、神によって命を与えられたことを知らなかったからです。
単に「ある」ということと、「あるということを知る」ということとは、雲泥の差があるのです。

今の私達が通常、「知る」と言う場合、「善悪の知識の木」のことです。
しかし、本当の「知る」は、「命の木」のことを指します。
人はどちらの木からでも食べることができた。神に似せて、自由意志を持っていたからです。
しかし、神は人に命じて言われた。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
人はこの命令を守っていたからこそ、天上に留まっていたのです。
だが、人は地上のあらゆるものに名を付けているうちに、少し賢くなったように錯覚してしまうことがあります。概念が実在化して、固まりつつあった。

ここで初めて、「知る」が起きようとしていた。神はどうするかじっと見ておられた。
人は試されていた。神はすべてご存じの上で試されます。子となるまでは。

何も知らなかった人が、初めて「知る」段階において、「善悪の知識の木」を食べたがために、「命」も「わたし」も知ることができなくなったのです。
これは、天上で起きた。
知識(地上の土の塵)は食べてはいけないものだった。知識に命はないからです。
命のない知識を食べるから、死ぬことになる。
塵の側に立って自分を振り返ると、裸だと知って怖くなります。だから、神は人に皮の衣を着せて地上に連れていかれた。
魂そのものに皮の衣を着せられたので、自分ではどうすることもできない。

土の塵が悪いのではない。神の命令に背いて、食べたことが悪いのです。
塵とは、隠れたものを理解するために、隠れたものを時や広がりを用いて表現するためのものです。
「光るもの」によって、見えない「光と闇」を見える「昼と夜」の形で現わして、日と季節を示すようにされた。
知らないものには、「たとえ」を用いて、神は導こうとされるからです。
人が、時や広がりで世界を理解するのは、このためです。
ただ、自分が塵になってはいけない。「もの」の呪縛にはまってしまいます。

神は塵を集めて形づくられます。それで、人は形づくられたものを見て、不思議な力を感じることがあるのです。父から学ぶ。
父から学んだものは、次に真理を求めるようになる。
この世で見るのは見えないものを見るため、この世で聞くのは聞こえないものを聞くためです。
時は水に似ており、広がりは神の霊に似ている。

神は土の塵を集めて器だけを造られたのではない。そこに、神ご自身の命を吹き込まれた。
命を受けて初めて生きるものとなるのです。
ところが、器の部分に惹かれてしまうと、死ぬことになります。土の塵に、命などないからです。
神が「善悪の知識の木」を食べてはいけないと命令されたのは、そのためです。食べないためには忍耐がいるのです。

ここで大事なことは、塵を集めた器に「神自身の命」を吹きこまれたということです。器だけで、生きているのではない。

最初の人は「自分がどこから来てどこに行くのか」知らなかった。
人は裸だったが、裸であることを知らなかった。命を受けても、命があることを知らなかった。霊と水。
神の掟を守って、天上に留まっていた。これが、人の原点です。

この世は闇に支配されている

地上の私達は、天地を知らない。それなら地上を知っているかと言うと、それも知らない。
何も知らない。
本当に知らなければ罪はなかった。
しかし、知らないのに知っていると語るようになったから、罪が生じたのです。

闇に属すと死ぬ。そうならないために光が照らしているのですが、人は光を求めない。

肉から生まれたものは肉です。
肉は、父親と母親から生まれる。そこに、神などおられない。
肉は、誰からの命令も受けず、自由に語る。そこに、神などおられない。
なので、この世が神を信じることなど、不可能に近い。
今までの知識や肉など一切を捨てないと難しい。この世の命を捨てないと難しい。この世の理屈・常識をすべて捨てないと難しい。

この世を離れたくないのです。だから、死は仕方がないものとして、諦めている。
光より闇を好むからです。
見ても見えず、聞いても聞こえない。生まれ変わるしかない。

私達は今、自分では生きていると思っていますが、実は死んでいるのです。
闇の中にいることは、死んでいるのに等しいからです。
イエスは言われた。「神は死んだものにも命を与えられる」
つまり、私達は死んでいるが、一時的に生かされている。死んでいるのですから、放っておくと、元の死に返されてしまう。
仮の世界に入って、仮に生きている。しばらくの間、灯で生きていますが、しばらくすると灯は消えてしまいます。

何故、しばらくの間だけこの世に連れて来られるのか?

自分の命を捨てるためです。それによって、「永遠の命」に至るからです。
死なないと生きない。消える灯を光に移すためです。
自分のものなど一つもない。自分の命ではない。神のものは神に返すべきです。
父の家にいるものは、いつもそこにいます。

しばらく、この世に光が来ています。闇を照らすために。
イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなた方の間にある。暗闇に追い付かれないないように、光のあるうちに歩きなさい」
私達がしばらく生きているのは、光がしばらく留まっているからです。
闇に留まるなら、「この世を去っていく=死」となる。

光はいつもあります。ただ、この世には、しばらくしか来ない。
この世は、真理の中にないからです。
だから、このしばらくの間に真理に属しなさいと、今、叫ばれている。
死んだものがこの世に来るのは、このためです。今がその時です。

イエスは言われた。「わたしは父のもとから出てこの世に来たが、今、この世を去って、父のもとに行く」
命があっても命を知らなければ、命は無いことになる。もし命を知っているなら、神をも知ることになる。
神は生きているものの神だからです。死んでいるものに、神はおられない。
直接、神を知ることなどできない。だから道を歩いて神に至るのです。道とは、「わたし」のことです。命の木です。私達は枝です。

これらは、イエス・キリストの死から学んだことです。「わたし」(命)を信じなければ、死んだまま、闇のままです。罪は残ります。
闇はあまりにも深い。

イエスは言われた。「フィリッポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。・・・」

「わたし」を知るということが、簡単でないことがよく分かります。
「わたしを知っているなら、父をも知ることになる」からです。

「こんなに長い間」とは、この世(時間と空間の世界)では、イエスとフィリッポが一緒におられた、或る一定期間を指します。
ところが、霊的に捉えるなら、「わたしはフィリッポの内に、ずーと永遠に一緒にいるではないか。どうしてそれが分からないのか」と仰っているのです。命が叫んでいる。
つまり、「こんなに長い間」というのは、永遠を示しているのです。ただ、永遠は、隠れたところにあります。
この世は、イエスが去ると、もはやイエスを見ない。生きておられても見えません。

大事なことは、これは単にフィリッポだけに語られているのではなく、全ての人に語られているということです。イエスの言葉は霊であり、命だからです。
イエスは、ある地域で、ある時期に、ある時間、活動された。これは、現れだからです。
しかし、その言葉は、時を超え、場所を超え、全ての人一人一人に語りかけておられる。これは、隠されています。
現れたものにおいては個々に特定されますが、隠れたものにおいては普遍だからです。
だから、どんな人もこの言葉を自分の内から聞いて、信が深まるのです。肉の耳から聞くのではなく。
この世からすると、大変不思議に思えますが、受け入れれば、分かるのです。
聖書全般、受け入れずに分かることなど一つもありません。
聞く耳があるものは聞きます。本当に小さな芽でも、育てれば大きく育つ。

「しばらく」という風に、この世では時間があります。命にも時間がある。語る言葉にも時間や長さがある。

何故、時(とき)の「たとえ」を用いて語られるのか?
それは、「わたしがどこから来てどこに行くのか」を学ぶためです。
霊だけでは分からないからです。霊と水、天と地、光と闇、父と子など二つに分けられて語られるのは、ただただ、一つに導くためです。
神と言葉も分かれていない。分けて語られるのは、分けないと人には理解できないからです。
言葉で理解する場合、その言葉を通して、命まで見ることができるかどうかです。
分かれて見えるものが、分かれていないことを知るのは簡単ではない。
その間が見えないといけないからです。
わたしがつながっていないと、他の全ても切れてしまうのです。
しばらくを永遠に移すには、真理の道を通らないといけない。
真理は信じて分かる。つまり、分かるために信じる。最初は知らない。知らないものが知るに至るために、今天地にいる。

イエスは言われた。「父の内にわたしがおり、わたしの内に父がおられる」
これには、時を感じない。天地創造以前から「わたしはある」からです。神は御自分の内に命を持っておられるからです。
これは、理屈抜きで、最初に信ずべきことです。ほんの少しなら、感じることもできますが、すぐに自分の家に戻ってしまいます。

イエスは言われた。「わたしは父のもとから出てこの世に来たが、今、この世を去って、父のもとに行く」
これは、時と場所の形で、「出る」とか「去る」とか「行く」とか表現されていますが、命について語られている。
イエス自身のことを言われているが、それを聞くものは、そのまま自分のことだと悟る。
たとえが真理に移る。光が自分の内に入りこむ。
言葉は神から出るが、その言葉も神だからです。これを知って神に属す。
これに対し、
土の塵にすぎないものは塵に返るだけ。父のもとには行けない。

「わたしはある」は永遠の命・真理で、神を言葉によって証したものです。
「わたしはある」を直接知ることはできない。だからこそ、神のもとから出ていったのです。
神から出て、時と場所の世界の中に入って、導かれていくのです。

「わたしはある」は、不変の真理です。なので、実際には、神から一歩も外に出ることなどできません。
ただ、私達はその真理を本当に知ってはいない。
「神から出る」というのは、どこから来てどこに行くのか知らない私達を真理に導くために、「時と場所」の表現で説明されるからです。

時と場所を通して、信仰と忍耐でもって真理を知るものとなった時に初めて、最初から「わたしはある」ということを悟る。
最初は知らない。最後に知る。そのために道をまっすぐにしないといけない。
「時や場所」は、知らないものが知るものとなるために用意されたのです。
「わたしはある」をはっきりと知るまでは、ただ信じるしかない。

たとえを用いて語られる

「たとえ」は、たとえなしで、はっきり分からせるために語られる。
イエスを見て何を見るのか。まさに神のなさる業を見ている。
神もイエスもたとえを用いて語られています。聖書もたとえを用いて書かれています。
知らないものには、たとえを用いて導こうとされるからです。
神が光と闇に分けられたのもそのためです。天地は導くために造られた。

もし、「たとえ」がたとえだと本当に分かるなら、たとえで終わらない。
「たとえ」は、そのまま「真理」に移るからです。今の命がそのまま永遠の命に移る。
たとえというのは不思議なものです。簡単ではないが、「時間と空間」を破ることができるからです。肉は必要なくなってしまうからです。
しばらくの命をよくよく見るなら、そこに、永遠の命を見つけることができるのです。
人は神に似せられて造られた。だから、似た「たとえ」で導かれる。
もし、似せられていなかったなら、導かれることすらないでしょう。
ただ、似ているとはいえ、随分離れています。

命は言葉でもある。言葉を語ることで生きるからです。
神と言葉と言われたり、霊と水と言われたりします。
神は御自分の内に命を持っておられる。
私達の命は、そこから来ていて、つながっています。
私達が、「わたし」と語る時、神から出た「わたし」、神から遣わされた「わたし」でないといけないのです。
地上で繋いだものは、天上でも繋がれる。

聖書は「わたし」について書かれています。
「わたし」の最初から最後までが書かれています。
わたしの内を覗けば、天地創造の過程など、来た道の全てを見ることができるのです。時は横に流れているのではなく、わたしを縦に突き抜けているからです。
もはや、時とは言えない。
わたしの中を流れている命を途中で止めてはいけない。自分の闇が止めている。道を整えるべきです。
真理への道は信仰による。「わたしはある」とはっきり言えるまで続く。

ほんの少しの豆粒ほどの信仰でも、それなりに力を得ます。奇跡のような不思議なことが起きます。全く何も起きないのは、信じていないからです。

【補 足】
私はどこの教会にも属するものではありません。
若い頃から聖書に惹かれてよく読んでいます。
頭で理解することは難しいが、受け入れてしまう自分がいます。

あなたは試されている


ギリギリになった時に、人は試される。
そこでは、本音しか出てこない。
今迄、臭いものに蓋をし、格好をつけて生きてきたが、その蓋が全部剥がされてしまう。
もう逃げ道がない。
その時、あなたなら、どうする?
そこで試される。

「生か死か」のようなギリギリの時もそうですが、その時になったら、実際どうするのかは予測なんかできない。
平常時に頭で考えていた思いや希望は、ことごとく打ち砕かれるだろう。
戦争は戦争に行ったものでないと分からない。平常時と全てが逆転します。
平常時の考えは、あくまで平常時においてのみ考えられる考えなのです。
考える力というのも、徐々に衰えてきますし、考えも移りやすい。
一点にいて、全ての動くものを客観的に捉えていると思っているが、自分も動いている。
浅はかな考えと言いますが、考えに頼ることが既に浅はかなのです。
通常思うことは、単に思うことで留まっているだけ。深さがない。根っこまで届いていない。
ギリギリの時には役に立たない。
だから、試される。

土壇場では、あたふたするしかない。これこそ、人間が置かれた本来の状況です。
人の頭も知識も全く役に立たない。この時に至って、初めて分かる。
思い通りにいかないことは頭で知っていても、それが本当に分かるのは、この時です。
いかに飾りもので生きてきたことか。まるで夢や幻の中で生きてきたかのようです。
もう、この時になって気付いても遅いでしょう。

綺麗ごとがすべて剥がされた後でも、美しいものを見れる人は幸せです。
その人だけは、あたふたしない。
その人は死に打ち勝っている。死なない。

実を言うと、人はいつも試されているし、その報いも受けています。
見たくないものは、見ないよう蓋をしているので、気づかないだけ。
本当の自分を見たくないんです。非力で劣った自分を見たくないんです。
傲慢なんです。
非力で劣っているのが、人間なんです。
この事実を何故認めようとしないのか。

自己免疫力をフル活用して勝とう!

ここで言う「自己免疫力」とは、今現在持ち合わせている自分の免疫力と万一コロナに感染した場合に得られる免疫力の二つです。
この二つの免疫力を生かせば、基本、風邪と同じような対処の仕方でいいのではないかという趣旨で書きました。
当然、重症化した場合は、この限りではないが。
(前回「自然免疫」という言葉を誤解して使用していたので修正しました)

新宿発、歌舞伎町発、夜の街発、三密店発の「新宿歌舞伎町コロナ」が、全国に飛び火して蔓延してきている。
「懸念しています」「気をつけましょう」では、感染拡大を止めることはできない。
東京、愛知、福岡などで、3~4日間で感染者が倍増しているのは、検査の網に引っかからない無症状の隠れ感染者が相当いるからです。

今回のコロナでは、無症状の方が非常に多いので、網で捕らえることが難しく、感染が広がりやすい。PCR検査の効果も限定的。
このままでは、ホテルも足りなくなるだろう。
果たして、無症状者や軽症者を隔離や入院させる必要があるのだろうか?
病院は重症者のために空けておくべきではないのだろうか?

今や、放ったらかし状態で、「集団免疫」に移行したかのようです。
誰もそのことを公言しませんが。

今回のコロナは毒性が弱く、重症化する割合が少ないこと、今既に感染が市中に蔓延していることを考え合わせると、今や自分の免疫力で対応するしかないと思っています。
逆転の発想で。
重症率が少ない今しかできない。ピンチをチャンスに変えるには、自己免疫機能を最大限活用するしかない。

つまり、
思い切って、風邪と同じような対応方針に切り替えてみることです。
元気な感染者は、自宅療養していただくことで、病院では、重症者または、重症化しやすい人に集中して治療することができます。

いったん抑え込んでも、また広がります。抑え込むのに負担がかかるし、疲れと不安が増大するだけ。今となっては、無駄な気がします。
ワクチンを待っていても、いつできるのかさえ分からない状況です。

【自己免疫重視の体制】

基本は風邪と同じような扱いとする。風邪より少し注意が必要ですが。
 1.学校内で感染者が増えれば、学級閉鎖とする。
 2.熱のある人は自宅療養でも構わない。
 3.PCR検査は最低限でいい。蔓延時においては追跡効果が弱い。
 4.症状のひどい人や高齢者に限って、隔離や入院をさせればいい。
 5.元気な患者は自宅療養にする。隔離も入院もさせない。
 6.重症化しそうな人だけを早期に、優先的に病院で治療する。
 7.老人施設や病院関係者への感染を防ぐためのPCR検査は必要。

別に感染拡大を奨励しているわけではありません。誤解がないように。
感染しないよう、うつさないよう注意するのは当然です。病気なんですから。

もうここまできたら、自己免疫力に頼るしかないなというのが、私の率直な感想。
歌舞伎町を、最初に抑えて欲しかったという悔しい思いがあったが、後の祭り。
感染者数の多さにうろたえないことです。
自分で防御するしかないが、万一感染しても、それほど心配することはない。

前回と頭を完全に切り替えないといけない。前回よりコロナの毒性が弱くなっているからです。コロナにもライフサイクルや環境適応性のようなものがあるのかも?
前回の経験が役立つこともありますが、逆に弊害になることもあります。
気を付けるのは当然ですが、恐れることはない。

反発を受けることを覚悟して書きました。まったく個人的な意見なので、無視してもらって結構です。

自分のことは自分で守る

誰かに助けてもらえると思うなかれ。

国や自治体や他人とかにあまり期待しないこと。

何故かというと、自分のことを他の人はそれほど大事に思っていないから。

「人の命は地球より重い」と言いますが、それは自分の命のことであって、他人の命についてはそれほど思っていない。欺瞞に満ちた、美化された言葉です。
建前と本音とは異なっています。言っていることとしていることが違います。

事故や不幸が起きた後では、周りの人がこうすべきだったとかよく言われるが、それは起きてしまった後のこと。
起きた後、結果が出た後で、どうすべきだったとかの話が出る。しかし、時間は戻せない。
事故や不幸は、あまりにも突然やってくるので、防ぐすべは殆ど無い。事前に注意して防ぐことができる場合というのは僅かでしょう。
「君子危うきに近寄らず」です。それでも防げないことはたくさんある。その時にじたばたしても始まらない。心の準備をしておくべき。その時になって、誰かを恨むことなかれ。
これが現実です。
そして、災害や病気はがなくなることはない。戦争も然り。

後になってから、こうしておけばよかったというのは、色々言えます。
死んだら惜しまれることもあるかもしれないが、たとえどんなに惜しまれても生き返ることはできません。
生前、あまり好かれていなくても、死んだ時には、その時だけは、一応惜しんでもらえるかもしれない。
死んだら忘れ去られるのも早い。この世は生きている者の世界で、死んだ人はすぐ忘れ去られます。
少し経てば、そんな人いたかなという感じです。自分と他人とは完ぺきに分かれている。
「どうせ人は死ぬんだから」で最後は割り切られてしまう。なのに、自分の死だけは割り切ろうとしないんです。
自分のことなど、他人はそれほど大事だとは思っていない。恋人や家族は別ですが。
自分では自分をそれなりに評価、自負するが、他人はそんなこと知ったことではない。その他大勢にすぎない。勘違いしないこと。
非人情で冷たいことを言うようですが、これがこの世です。現実を見ず、夢や妄想を抱くのは自由ですが。
いくら防災や治療がすすんでも、この事実は変わらない。

他人や国や病院などにあまり期待しない方がいい。もちろん、事後に救ってもらえたら有難いし、感謝すべきです。
しかし、事前に期待しないこと。
あくまで、「自分のことは自分で守る」が鉄則。誰かに期待しない。
「助けてくれて当然ではないか」と言いたいでしょうが、これは、おまけ程度に思うべし。

本気で助けようと思う人は稀。そういう人に出くわすことも稀。これが現実。

蓋がとれて臭いものが現れ、疑心暗鬼が生じる。
分裂が生まれ、攻撃が起きるが、これは人の本性が露にされただけ。
臭いものは最初からあった。
自分で問題を先送りにしていただけ。危機は最初から自分の中に内包されていた。

「臭いもの」とは、「自分を守る」ということにあった。
守るから攻撃される。守らなければ、守られる。

感染すれど重症化せず


正確に言うと、感染しても重症化する割合が非常に少ない。
これが、今回のウィルスの特徴のようです。
病院の受け入れ体制が整ってきたからだ、という理由ではない。
この事実を公に言うと、コロナを軽視しているかのようにとられかねないので、言い出しにくいところがあります。
上層部もそれを知ってか、対策がのらりくらりしている感じがします。

ウィルスの毒性が弱まったのか、人の免疫力がアップしたのか、それとも両方なのか。
どちらにしても、前回とはかなり状況が違ってきている。
現在の日本に限っては、そう思います。他の国のことは知らないが。

もし、これが本当なら、通常の風邪と同じく、熱などがある発症者だけを確実に治療して、教室で感染が増えたら学級閉鎖すればよいということになります。

重要なことは、重症化する可能性のある人については、素早く入院させること。
そして、老人施設や病院では、全員の体温管理や健康管理を徹底させることが大事です。
最も心配なのは、医療従事者の感染が増えてきて、病院の通常業務に支障をきたすことです。
感染者がどんどん増えてくると、軽症者は入院や隔離ではなく、自宅療養を余儀なくされるでしょう。風邪と同じように。

前回の恐さが強く頭に残っているので、現在の感染者数の多さを見ると、どうしても過敏に反応してしまいますが、過度に恐れる必要はないと思っています。
ただ、人にうつさないように心掛けるというのは当たり前のことです。
PCR検査は、クラスタが少ない時には有効ですが、爆発が続いて、検査よりも感染速度の方が速くなると、効果は限定されます。
今回は、ウィルスに裏をかかれたな、という感じです。多く広がるが、少し弱い。

「withコロナ」とは、一体何のことだったんだろうか?
コロナウィルスが、「with people」と言っているような気がします。

以上、ここで書いたことは私見です。きっと、考えが甘いと批判されるでしょうね。

ロリポップのライトプランでMySQL5.6にバージョンアップ

ロリポップのデータベース画面


ロリポップの「ライトプラン」契約をしてWordPressを利用されている方が、mySQLのバージョンを5.1から5.6にアップする方法について書いてみました。

【必読サイト】
ロリポップサーバー ライトプランのデータベースをMySQL5.6にアップデートする方法

上記サイトに詳しく書かれています。画像が分かりやすい。是非お読みください。

私はこのサイトの存在を知らなかったので、別の複数サイトを参考にしてアップデートを行いました。
私が行ったやり方と上記サイトのkazutoyoさんのやり方を比べると、違うところが2点ありました。

1.エクスポート時の生成オプションの追加コマンドで、「DROP TABLE /View・・・・・コマンドを追加する」にチェックを入れたのは同じですが、私の場合、「CREATE ・DATABASE /USEコマンドを追加する」にはチェックを入れなかった。

2.私の場合、エクスポートしたファイル名を変更しないままでインポートした。
 インポート時にエラーが出てびっくりしたが、もう一回、何も変更しないでインポートを試みたらと成功しました。
ファイル名を変えなかったためにエラーが出たのかもしれませんが、同じ操作を繰り返しただけで成功した理由は分からない。

この作業は、WordPressダッシュボードのサイトヘルスステータスで、mySQLのバージョンアップを行うように指摘されたことによるものです。

ロリポップのライトプランでは、データベースが一つしか使用できません。
なので、ライトプランでは、既存の5.1を削除してから、5.6を作るしか方法がないんです。

そのために最も重要なことは、最初に、既存のデータベースを正しくエクスポート(バックアップ)してから作業を行うことです。

私の場合、あまりに恐かったので、念のためにダッシュボー上で投稿記事をエクスポートしてから行いました。
失敗して投稿記事が全部吹っ飛んでしまうと恐いので、しばらく5.1のままで放っておいたんですが、今回思い切ってバージョンアップしてみた。

事前にネットでやり方の情報を収集して、ある程度理解したうえで行わないと失敗します。
初めてだと覚悟がいります。
私も不安だったので、ダッシュボードのエクスポート機能を利用して、投稿、ギャラリーやニュースのバックアップをしてから行いました。
概要が理解できない方は、誰か知っている人に助けてもらうか、やめておいた方がいいと思います。

ライトプランの方がデータベースバージョンを5.1から5.6にアップするには、
ロリポップの「phpMyAdmin」から下記の作業をすることが必要です。

  1. 「phpMyAdmin」を開いて、既存のデータベースをSQLファイルとしてエクスポート(バックアップ)しておく。
    ここで重要なのは、以下の2点。
    ★エクスポートの方法で、「詳細ー可能なオプションをすべて表示する」にチェックを入れる。
    ★追加コマンドで、「DROP TABLE /View・・・・・コマンドを追加する」にチェックを入れる。
  2. その後、既存のデータベースを削除する。
  3. 新規にデータベースを作成します。5.6用のサーバーが表示されていることを確認して、そこに新たなデータベース名パスワードユーザー名ホスト名の4項目を指定します。
  4. 新たに作成したデータベースに、最初にエクスポートしたSQLファイルをインポートする。
  5. 最後に、「ロリポップFTP」を利用して、「WordPressのwp-config.php」を編集します。
    「DB>NAME」(データベース名)、「 DB_USER 」(ユーザー名)、「DB_PASSWORD」(パスワード)、「 DB_HOST」(ホスト名)の4項目の右側部分を上記3.に合わせて修正する。
    (私は心配だったので、事前に「wp-config.php」をダウンロードしておきました)
    修正するには、「編集可」にチェックを入れ、「保存」ボタンをクリックしてから行ってください。
    修正が終わったら、「編集可」のチェックを必ず外しておいてください。

田舎と都会のコロナ意識


今のところ、コロナ感染を完全に防ぐことはできません。
なので、現在は、医療体制を万全にして、重症者があふれて医療崩壊を招かない範囲で、経済活動を維持していこうとしています。
しかし、放っておくと、感染者は確実に増えていく。今のところ重症者・死者の数は少ないが、爆発が重なると、コントロール不能に陥り、検査すら役に立たなくなります。
「重症者の数が少ないから、たとえ感染者の数が多くても問題はない」という考え方は結果論であって、明日を決めるものでない。

感染を広げない意識や行動は、コントロール不能に陥る前の今の段階でこそ必要。
制御不能になってしまうと、いくら対策を施しても、もはや後の祭りです。
PCR検査より感染のスピードが速いと、検査の意味も無くなってしまう。

宣言解除後は、医療関係者に頼り切っている感じがしないでもない。
三密回避はどこにいったやら。喉元過ぎればなんとやらです。専門家会議はどこに?
テレビやマスコミで危機を煽られ、悲惨を目のあたりにしないと、本気で自粛しようとしない。せっかく学んでもすぐ忘れてしまう。

自己責任とか自由という言葉の意味は、人によって捉え方が異なるため、誤解を生みやすい。田舎と都会を比較して書いてみた。分かりやすくするために少し誇張して書いています。

地方の本音君が言った。
東京は東京でちゃんと解決して欲しい。地方にコロナをばらまいてくれるな!
東京の人はこちらに来ないでほしい。

建前君が言った。
地方の人が東京の人を来ないでと言うのは、差別だ。
東京の人がみんなコロナに感染しているわけじゃないし、かかりたくてかかっているわけじゃない。
誰だってかかる可能性があるんだ。責任なんか一切ない。日本を分けるな!プライバシーを守れ!

本音と建て前

コロナの感染拡大を抑えるという点では、本音君の意見の方が役に立つ。
各人の自粛によって防げるなら、それに越したことはない。自己調整機能で。
ただ、自粛しない人が増えてくると、癌化してきます。すると、自律回復が難しくなり、強制治療しかなくなる。
癌化して、自己治癒力で直せない場合、手術が必要となる。手術が遅れたら手遅れとなる。
自由やプライバシーなどと言っている場合でなくなる。癌が全体を侵してきたら。

憲法12条には、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とある。
公共の福祉のための自由の制限は認められています。

「自由の制限」と捉えるのではなく、本来の自由というのはそういうものなんです。
自由とは、「心の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず」(孔子)に近い。
自分勝手とは異なります。

決して地方の人が東京の人を差別している(見下している)ということではない。
コロナウィルスがどこにいるのか判別できない現状において、東京に感染者が多いのは確かなんだから、大雑把に東京の人を避ければ、感染が防げるだろうという風に思うのは何らおかしいことでない。
もし、東京が地方であったなら、東京の人だって地方の人と同じように思うはずです。
東京の感染者がこれからどんどん増えていったら、少し抑えていた本音君の意見が再び表に噴出してくるに違いない。

いつも、危機の時は、本音君は建前君よりも強いんです。
平時は、本音をオブラートに包んで建前で生きているだけなんだから。

命は経済より大事だと騒いでいた人が、最近、その声が小さくなったのは何故でしょう。状況次第で人が変わるというより、状況次第で関心が変わっただけです。
水不足になると、水は大事だと痛感するが、水が豊富だと誰も水に関心など持たない。それと同じ。

田舎は自己責任意識が高い。

なので、自分から危険な場所には行かないし、自分達で自分を守ろうとします。
あまり、お上を当てにしたり、お上が悪いからだとか言わない。
この私も、「自分のことは自分で守る」を基本にしています。とは言え、助けていただかないといけない場合が出てくるかもしれない。その場合には感謝しかない。
自分でできることは自分で行い、自分でできない人には手を差し伸べる。これは、ごく自然なこと。
できるのにしないで、助けだけを求めるというのはおかしい。

感染するのは自分の責任だと思うぐらい、自分に厳しくしている。周りに迷惑をかけたくないからです。一概にこれが間違いだとは言えない。
良くも悪くも、田舎は世間体を気にする。世間様があって自分がいるという意識なんです。

だから、その分、東京には手厳しく言うわけです。
自分で注意していても、感染したなら仕方がないと田舎の人も思っています。
その反面、もし自分が感染したら周囲から何を言われるか分からないという恐さも感じている。

田舎で感染すると、周りにすぐに知れ渡ってしまうので、誰がどこでうつったのかすぐ分かってしまう。プライバシーもあったもんではない。お店は自ら先に公表した方が得なんです。
少しきついですが、その分可視化が進むので、感染の防御に効果がある。

東京では田舎ほどに周りを気にしないで比較的勝手に振舞える。しかも、プライバシーの主張も強い。東京と地方では、横のつながりが随分と違うんです。
田舎のように、東京も慎重にやってくれと、田舎の人は言いたいのです。

ただ、東京は個々の人がバラバラで共同体意識など育まれていません。だから、田舎と違って自律制御が難しい。世間もなければ、連携もないので。
強制的な制御しか選択肢がなくなってきます。

地方の人は都会よりも余計に気を遣うので、感染が少ないし、広がらない。まあ、クラスタになるような密な場所が少ないことも大きいが。
田舎には、村八分と似たような面もありますが、これがすべて悪いというわけではない。村の秩序を守るために必要だった部分もあると思います。
祭りや行事に参加しないといけない煩わしさとそれらに参加した時の喜び、この二つが入り混じった心境が共存しているのが現在のようです。
隣は何をする人ぞ、という都会感覚ではない。でも、少しづつ変わりつつあるのも確か。新し人(よそ者?)が入ってきて、自治会に入らない人が増えてきているし、自治会がないところもある。村意識は薄れつつある。

煩わしさを避ける傾向が高まっています。自分で放っておいてくれと言っておきながら、危機の時にはやたらに助けを求める。なんかおかしくない?

風邪をひかないためには、自分の体調管理をしっかりしないといけない。まず自己管理です。
ひいたら仕方がないですが、日頃ひかないように注意することも大事なんです。
完全に防ぐことはできないが、防ごうとしないともっとかかりやすいんです。

自己責任、自由、無責任、差別という言葉は、非常に曖昧に使用されています。だから、誤解が生まれる。
微妙なニュアンスを言葉で表現するのは難しいんです。
ここでは分かりやすくするために、田舎と東京に分けて誇張して書いています。
厳密には、田舎にも色々あるし、東京の中にも田舎部分もありますので、ひとくくりで語れません。誤解のないように。

空虚

人は、「生きる意味があるのか」とか、「生きる価値があるのか」とか考えたりします。
私はこういったことを考えること自体に意味も価値も感じない。
何故なら、そんなことを考える前に、既に生きているからです。
犬や猫や幼子などは、そんなこと考えない。しかしそれでも、生きています。
それでいい。

本当にまじめに考えたら、絶望するか死ぬかしかない。
不真面目に考えているから、何とか生きておられる。少し言い方が悪いですが。
所詮、人の考える力なんて、しれている。そう見切ることで、初めて出発点に立てる。
思考は、真実を捉えることができない。考えれば考えるほど、どつぼにはまる。
「考え」に頼って生きていてはだめ。自分の頭はそれほど賢くない。

どうしても価値が欲しいと言うのであれば、生きていること、そのままを価値として感じられるようになることだと思います。

何故、そういうことを人は考えるのかというと、元々、奥底に空虚があるからです。根幹に悲しみを持っている。欠けている。
順風な中では、生と死についてそれほど意識しません。ただ、順風でないことが多々あるので、そういう時に空虚が噴出してくるのです。
厭世感が生じて、気力がなくなったりとか、どうせ死ぬんだからと思うようになる。
自分の中にポカっと穴が開いている。その穴を埋めるために意味とか価値で埋め合わせしようと必死になっている。
ところが、それで一時的に心が安らぐことはあっても長続きしない。結局、また、元に戻ってしまう。
そうするとまた、別の何かで埋め合わせしようとする。それが欺瞞でも構わないんです。穴を埋めればいいのだから。
こうして、繰り返し繰り返し自分をだまし続けながら生きている。
そして、この世を終える。

「考え方」で空虚感はなくなりません。逆に、考えない方がまし。
私たちが通常語っている生と死は頭の中のもの。感性と思考の中にあって、考えの中で生きている。思考の産物です。
つまり、死を見て勝手に解釈し、その反対として、生を感じている。
死を知らなければ、生も知らない。知識によって死ぬのです。

死を学ばされるのは、死を超えて生きるためです。
思考以前においては、生もなければ死もないからです。生死不二。
二つに分ける意味が消失する。つまり、分けて見ているのは、分けないためです。
執着を離れるとは、このことです。
ここに至って、空虚が消え去る。穴が塞がる。「本当の命」に出会う。
空虚を学ばされるのは、まさに空虚を滅失するためです。
本当に分かるというのは、知識では無理。知識を捨てることでしか分からない。

求めるものと与えるもの

理屈以前

赤ん坊が生まれると、母親のお乳を求め、母親はそれを与える。
これは、人だけでなく、犬や猫でも同じです。
ごく自然なことで、理屈などない。

「理屈」以前にそうだからです。

不足しているものがあって、それを補おうとする働きが生じる。
その繰り返しがこの世界。それで、動いている。
水が上から下に流れるように、誰かが苦しんでいると、誰かが救おうとするように。
ごく自然な振舞です。(そうならないのというのは、不自然なことです)
人の体の中においてもそのように活動している。たとえ、気づかなくても。
多様性とは、裏を返すと、個々で不足しているから、まとまって補い合うためにある。
これは全体で一つのものだからです。個は部分です。

「気づく」以前にそうだからです。

「理屈」とか「気づく」というのは、頭の働きによるもの。思考は後追いです。
石が自分に向かって飛んできたら、とっさに避けますが、この場合、感覚はあるものの、思考の余裕などありません。
別になくてもいいような「思考」ですが、何故か、人にはそういった力が備わっています。
元々起きていることを、頭で確認して、記憶して、原因分析や応用をしようとします。
まず事実があるのだが、それを頭で確認するように促されます。
確認することによって、人独自の「知ること」「創造すること」の喜びを得るようにできている。
しかし、この「知る」という力は、元々欠陥品で、何かが不足している。
その不足している何かを補おうとする力が働き続けている。

欠けているから補おうとする。
恐らくこれは、全宇宙的な営みだと思います。
もし完結したら何も動かなくなるでしょう。それまでは動き続ける。

頭は間違う

事実はそこにあるのですが、その事実を捉える時に間違いが起きる。

頭で捉えたものは、正確性に欠けるからです。事実以上でないからです。
困ったことに、捉えたと思った内容に執着してしまうと、逆に反撃を食らうことが多い。
不正確な知識が、今度は、人の心や行動にまで影響を及ぼしてくる。
不正確な事実認識が、逆に災いをもたらしてしまう。

自然なことを殺すことで、不自然な世界へと迷い込んでしまう。

災いは、事実を間違って認識することで起きてしまうことが多い。
思考力には限界があるからです。
厄介なことに、それが間違っていると自分で気づくことができないのです。
その限界をわきまえて振舞う必要がある。丸呑みは危険。

事実に勝るものは無い。(ここで言う事実は、頭で解釈された事実とは異なる)

ところが、その事実を正しく捉えるということが、ものすごく難しい。
人にはできないと思う。それを出来ると思うことの方が、傲慢ではないかと。
人はよく分からないまま生まれて、よく分からないまま死んでいくというのが、本当ではないだろうか。

知らないということを知るだけでも、人はもっと謙虚になれると思います。
本当に無能になった時、初めて真実に目覚める気がします。
今回は、曖昧で抽象的な話に終始しましたが、私はこのファジーさの中に真理を探し求めています。

巧言令色鮮し仁


「こうげんれいしょくすくなしじん」と読みます。仁は思いやり。出典:論語。
言葉巧みで愛想のいい人には、誠実な人が少ないという意味。

まあ、概してそのようです。
偉い議員さんの演説などを聞いていると、何も原稿を見ずに長々とすばらしいことをしゃべっておられるのを見ると、すごい才能だなと感心します。
ところが、壇上に上がる前は、苦々しい顔をしておられたのに、壇上に上がると豹変し、満面の笑みで語られている。変わり身の早さには驚きます。
テレビでも、カメラが回り始めると、豹変してしまうタレントさんもおられるようですが。
公と私の使い分けが非常に上手い。自然さが一番なのですが、それでは面白見がなく、印象も薄くなってしまうんです。

どうしても、与えることより受けることを望んでしまうんです。

聞く方は、公の面しか知らないので、その言葉に騙されやすい。
立派なことは誰でも言えます。ただ、そのことが分かっていても、騙される人は騙されるものです。
格好よくでかいことを言う人には、応援者も多い。橋や道路などのメンテなどしっかりやっても誰も偉いと思ってくれない。地味な働きはあまり評価されません。おかしなことですが。

私のような昔の人間は、朴訥なしゃべり方の人に温かみや誠実さを感じることが多い。
なんせ、「男は黙ってサッポロビール」の時代だったので。
昔の人の口数は、今より少なかったように思う。
今は、たくさんしゃべらないと分かってもらえないようだ。綺麗とかおいしいとか愛してるとか、口で言わないと分かってもらえない。
このことを妻に言うと、「言われないと分からないでしょ!」と反発を食らってしまった。ガクッときた。
夫婦でも阿吽の呼吸で分かり合えるというのは、少なくなってきたようだ。

私なんかは人の言うことは、まず信用しない。人は嘘も言うし、言い間違いもあるし、適当にしゃべることもあるし、本音かどうかさえ分からないこともあるので。
本音は、口から言葉が出る前にあると思っています。なので、話の内容についてはそれほど重きを置かない。
冒頭のことわざに絡めて言うと、その人に仁があるのかどうかを直観的に感じ取る。何よりも先に。
「あの人はこう言っていた」とか、そんなまた聞きは、信用しない。
いい人かどうかなんて、その人に会ってみないと分からない。会っても、その喋りに騙されると、分かったつもりになってしまいます。随分後になって気づいた時には、既に遅しとなることもある。

「伊豆の踊子」の小説の中に、「いい人はいいね」と語っているところがありますが、いい人とは、そいう感じでしか分からない。共感の中で伝わる。理屈ではなく、心で感じる。

同じ言葉でも、何気ない言葉の方がその人をよく示しています。一生懸命考えて作った言葉よりも。心がそのまま現れているためです。

「あの時に君が言ってくれた言葉で本当に救われたよ。感謝してる」と相手から言われた時、大抵、それを言った本人は覚えていない。
「俺、そんなこと言ったかい?」と聞き直すことがある。あまりに自然の流れで出て来た言葉は記憶にないんです。
そもそも、いいことをした時というのは、いいことをしたと思っていません。相手から言われて、初めて気づく。考える前に動いている。
逆に、いいことをしようとして、いいことをするというのは、良いことではありますが、完ぺきではないんです。

頭は本当によく間違う。当てにならない。自分の頭は信用できない。
頭でひねり出してきた言葉は、技巧的に繕われていることが多く、本音が現われていないことが多い。
人を見る時、語られる言葉の内容がどうのこうのよりも、根底に仁があるかどうかを感じ取ることが大事です。
自分を大事にするほどに、仁は少なくなる。自分をなくせばいいのだが、それが結構難しい。つい、与えることより受けることを望んでしまう。
綺麗なことは、誰でも言える。これを書いている私もそうかもしれない。

ファジーな世界のファジーなわたし


私はボヤ―としたものが好きです。頭が論理的にできてないからだろう。
近づいたらボヤーとしているですが、遠くから見ると白と黒に見えてしまう。
アナログ世界なんだが、自分の立ち位置によっては、デジタル世界として映ってしまう。
「ぼんやり」と「はっきり」とが分かれているのではない。二つあるわけではない。
一つのものが、視点の位置によって、二つのように見えてきたりする。

確かに、「ぼんやり」と「はっきり」とは、言葉の上では分かれています。
しかし、言葉を一切はさまないなら、分かれてなんかおらず、同じものです。
同じものだが、「はっきり」の側面しか見ていないのです。
10円玉の表を見ていると、確かに10円玉を見ているが、裏は見えていないのと似ている。

微細な原子の世界もそうだろう。
分析機器がボヤ―としたものを捉えられないから、分かれて捉えるしかなくなる。
人の目も機械の目も、基本的に正しく見ているのか怪しいところがあります。
最初から、そういう目で捉えようとしているから、結果、そういうふうに見えてこざるを得ない。フィルターを通して、下に落ちてきたものだけを見ている感じです。
フィルターに何が残っているのかが大事なんですが、それが見えにくい。
はっきり見えるというのは、曖昧なものを切り捨てることによってそうなる。
ここで、はっきり見えるものだけを「有る」としてしまうと、はっきりしないものが「無い」ということになってしまう。
頭(思考)で有無の二つにはっきり分けるからおかしくなる。

広大な宇宙についても同じです。
宇宙に果てなどありません。「果て」は、人の思考が生み出した産物。思考力の限界が、限界を作りだしている。
無限は有限を前提とした発想から生じるものです。無限大も無限小も誰も見たことがありません。思考の産物、イメージでしかない。
そもそも有限と決めている発想がおかしい気がする。有限に見えて有限でないというのが、真実に近い。見ても実体まで見えてないんです。何か恣意が入り込んでいる。

時間とか空間は、実在というよりも、心が何となく感じるものです。概念のようなものです。そのボヤ―とした感じのままがいいんです。
果てがないんだから、上も下も真ん中もないんです。
単に、区切った自分の頭や足を基準にして、上とか下とか言っているだけです。自分がどこから見るかで異なってくる。
一個、二個と当たり前に数えていますが、数や縦・横・高さなどは、生活する上で役に立つので、便宜的に使用している尺度にすぎない。
私たちは概念の世界で生きている。概とは本来、曖昧なんです。その曖昧なものを、頭で無理やり「時間と空間」で切断してはっきりさせると、ますます実態から離れてしまう。

私たちは、オギャーと生まれた時のことを覚えていません。その時を見ていない。
思考力とか記憶力というのは、少しづ増えてくる。最初はボヤ―としています。
後で得た経験や知識でもって、自分が生まれたことを追認しているだけ。自分で見たわけではない。
徐々に拡大してきた思考力や知識を基にして、全てを判断していますが、その知識が不確かなので、その判断も不確かなのです。

世界を見て、自分を自覚する。見て、振り返って自分を見るからです。
見なければ、自分の存在にも気づけない。
見るのは、自分を見るためです。だから、よく見ないといけない。

私はファジーな世界が気に入っている。
単に好き嫌いではなく、そこに本当のものが隠されている気がするからです。