論理的?

よく分からないことはとても多いのですが、時折、判断に迫られることがあります。
選択を余儀なくされる時、分からなければ、大抵、感覚的に決めてしまいます。
ただ、何故そう決めたのかと突き詰められるような場合は、論理的な武装が必要となってきます。
こういうことをするとこうなって、こうなるので、こうすべきであるという論理武装が必要となってくる。
こういう論理は、本やネットたくさんあふれているので、自分に合ったものを選ぶ、身に着けることになります。
よく分からないのだが、「こういうことをするとこうなって、こうなるので、こうすべきである」と書かれていると、なるほどと分かった感じになってしまう。
頭だけで考えたもの、想像や推理によるものは不確なものですが、それが正しいと思ってしまう。
こうして、大衆は操られていきます。多くの人がその論理に傾くと、それが、民意となってしまう。
操るのは簡単です。
「こういうことをするとこうなって、こうなるので、こうすべきである」という多くの人に受け入れやすい案を勝手に作ればいいのだから。
数学の世界では、解があり、証明がある。しかし、社会的な事柄については、決まった解も証明もなく、単なる予想に過ぎません。

人は予想に基づいて、今、行動していると言ってもいいでしょう。元々、非論理的なんです。

だから、予想が恐いものだと、今の行動はとても防御的になります。
昨日そうだったから、今日もそうだろうと思って行動している。大きな変化は頻繁に起きないから。雨の予報がると、傘を持って出る程度。
けれど予想は、はずれが多い。思い通りにならないことばかり。
元々論理的でないものを論理的に把握しようとすることには無理があります。なのに、論理的な説明が好きなんです。
構成要素が複雑すぎて、いくらパラメータを使っても、把握しきれるものでない。
しかも、自分も他人も世界も予想通りに動くとは限らない。
極端に言うと、一寸先は闇です。
誰も天井が今落ちてくると予想して行動はしません。普段は、大きく変わらないことを前提にして行動しているから。
けれど、実際に地震が起きれば、そうあることもある。その時は嘆くが、また、元に戻ります。
小さな変化は目に見えにくい。それが重なると、突然大きな変化をもたらすことがある。小さな変化まで気付けない。
よく分からないというのが、本当です。なのに、人は分かったふりをしたがります。上手に説明されると、すぐに信じて飛びついていきます。