比較する社会

比較する社会が現存していて、比較しないように生きるには、鍛錬がいります。

能力・財力で比較され顔形で比較される。社会がそうであると、皆もそれに馴染んでしまう。

本来、梅は梅で、梅は桜になりたいなどとと思わない。
それぞれの人も本来そうなのですが、いつのまにか比較ばかりするようになった。

能力というのも非常に細かい一部分だけを取り出して語られることが多い。
算数ができるとか、走るのが速いとか。

全体的な能力というのは、本来、比較できるものではないし、比較するようなものでもない。その人特有だからです。
細かい部分の違いは、単に認めたらいいことです。実際に違うんだから。顔形が違うように。
認めたらいいことなのに認めたくないから不幸になる。

社会は簡単にはいきません。ある部分の能力にたけた人を求めようとする。そこでミスマッチが起きる。皆そうではないからです。
選ばれた人とはじき出された人が生じる。
適材適所なのですが、そこへ入らないと自分はだめかのように思ってしまう。
また、社会もその人を落伍者のように見てしまうところがあるので、困ったものです。

でも悩むことなかれ。人の価値はそれで決まらない。
だから、そういう社会に負けないようにならないといけない。開き直れ!
そうでないと、いい人になれない。勝った負けたなどと思わないことです。
勝ち負けを意識しだすと、いい人に慣れない。勝ったものに対して、社会に対して、憎しみが増すだけとなる。それが一番いかん。

また、落伍者が暇に任せて余計なことを書いてしまった。
いや、落伍者ではない。開き直っているんで。