理屈以前


つくづく思う。人は理屈で動くんじゃないなと。
理屈を並べてこう動きなさいと言っても、動くのは、機械ぐらいでしょう。
ちょっと機械的な人もおられますが、機械とは全く異なります。

これは、人というのは、元々、理屈で動いているわけではないからです。
理屈は後からのもの。人が後で考え出した勝手なものです。
本来、理屈で動いていないものが、理屈で動こうとしたら、リズムが狂ってしまいます。
通常、歩くのに、右足出して、次に左足を出そうなどとイチイチ考えない。考えたらリズムが壊れて、けつまずいたりします。それと似ています。
その結果、病気になったり、狂気を抱いたりするようになる。
人々は少なからず、この理屈の影響を受けている。
自分の信じた理屈でもって、自分を懲らしめている。縛っている。おかしなことです。
自業自得と言えば、それまでですが。
人は本来もっと自由なんです。理屈なんかに左右されないものなんです。

理屈を語る人は、自分が正しいと思っていますが、その理屈に嫌気がさす人々もおられる。
理屈でやられると、鬱憤がたまってくるもんです。
理屈をこねる人の言うことに従っても、何ら良くならないと不満を抱く人々も多数おられる。
まさに今、能力の限界、知識の限界、人の限界が露呈されている。

頭のいい人が言ったから真実というわけではなく、それが本当だと信じた時、それが真実になってしまう。
言い換えると、私達が語る真実というのは、本来の真偽ではなく、信じたものを勝手に真実として仕立て上げたものにすぎない。
なので、理屈は当てにならないのです。

これは、人を知らないことからきています。いや、自分を知らないことからきている。
人がどれだけ優れていると言うのか?
理屈は後、法則も後。それ以前がある。後のもので前のものを消し去ることはできない。

日々、寒々とした言葉が飛び交っています。
その言葉には、愛がなく、命がない。死んだ言葉は、単に空虚でしかない。

自由度の低い「もの」は理屈が通りやすいが、自由度の高い「人間」は理屈通りにいかない。
時間と空間の中では、変わりやすいものもあれば、変わりにくいものもある。全てが変わる無常世界です。
変わりにくいものがあるから、日々の生活が成り立っている。
変わりにくいものは、徐々に変わるため、なかなか気づきにくい。
自由度の高い人間が死ぬと、自由度の低い土になってしまう?
これが真実なら、最初から本当の自由などなかったことになる。

実を言うと、死というのも理屈なんです。後なんです。前がある。
理屈から解放されないと、本当の自由はない。