弱肉強食


これは、昔から変わらない。
人は少し賢いので、上辺では上手に繕ったりしますが、奥底は動物とあまり変わらない。
化粧が剥がされると、表に出てくるので、公に分かります。
周りとうまくやっていこうという気持ちと、自分を押し通したいという気持ちが互いにせめぎあっている。
せめぎあっていても、何とか繕っていられる間は静かですが、我慢できなくなると、爆発して自分がそのまま出てくる。

奥底にあるものは、必ず表面に出てきます。
これは、出てきたものを見て、自分の奥底に気付くためです。
しかし、気づかなければ、これでもか、これでもかと大きくなって出てきます。
大丈夫だよと楽観視していると、大変なことになる。甘い希望はことごとく打ち砕かれます。

問題が小さい時は見過ごしてしまい、大きくなるともはや解決不能ということが起きてしまう。
克服すべき時に処置しておかないと、また、同じ壁にぶち当たる。
人生においても歴史においても、何度も同じようなことが繰り返されるのはこのためです。知識は何の役にも立たない。

表面に出てくる対立は、出てくる前の自分の心の中に既にある。
自分の内に対立がある。矛盾は本質的なものです。
群れの中で闘争があり、群れと群れの間でも闘争がある。
誰もが平和を望むが、戦争はなくならない。殺し合いは戦争という場だけではない。あらゆるところに起きている。
そもそも、平和なんてあり得るのだろうか? 空想にすぎないのでは?
繕われた静かな時間がしばらくあっても、すぐに壊れる。

戦争を好んでする人はまずいない。
その前には、必ず小競り合いがある。
口だけの対立から始まって、だんだん相手を懲らしめる形へと変わっていく。
制裁には制裁で反撃するようになる。
そのうちに、多くの人の感情がまとまってきて、民意となる。
反対したら非国民になる。民意に背くことは勇気がいるが、打ち消されてしまう。
守るためには、攻めるしかない状態へと追い込まれていく。
もはや、引くに引かれぬ状態になる。
相手が銃を持てば、こちらも銃を持つ以外ない。
銃を持ちたくて持つのではなく、持たないとやられるから持つ。
一触即発の緊張感が生まれ、何か起きると戦争に突入する。
戦争は悲惨です。
しかし、どちらかが降参して、屈服しないと終わらない。
負けても、恨みは残る。記憶は記録として受け継がれる。
戦争は正当防衛として、正当化される。

火種は自分の心の中にある。それが外に現れてくる。
そして、その火種を消し去ることはまずできない。
なので、戦争はなくなりようがない。
美しい理念を掲げても、することはそうでないからです。対立を招くことをしている。
企業理念に人のためとか社会のためとか書いてあっても形だけ。自分の会社の儲けしか考えていないのが普通。存続するためには、なりふり構っていられない。
民主主義という美しい理念も同じ。恰好だけではどうにもならない。
たとえ、理念が最初の動機だったとしても、すぐ変わってしまいます。行動は別だから。
勝つことは、相手を負かすということ。負かして、一つ上に行ける。だから、皆さん頑張っているのではないでしょうか。
一皮剥ぐと、弱肉強食。生きるか死ぬかです。「自由競争」と言うと、妙に聞こえはいいですが。臭いものに蓋をしていても、必ず臭いは出てきます。

いい事を語る人はたくさんおられますが、いい人は殆どいない。(この私も然り)
いくら口で理想を語っても、どうしても現実の方が勝ってしまうようです。

賢くなったら、対立や戦争が減るかと言うと、そうではなく、その逆です。
賢くなるほど、各人が勝手なこと言い張るようになり、意見が割れます。

そもそも、知識というのは分断と差別を招きやすい要因を内包している。
知識が増えるということは、更に細かく分けていく作業だからです。
細かい木ばかりを見て、どんどん森が見えなくなる恐れがある。
森としてまとまっていたものが、木同士で対立してしまう恐れがある。
理屈はどんなことでも好きに付けられる。賢くなるほど、巧妙になってくる。
化粧が上手になる。厄介なことに、本人ですら気づかない場合が多い。自己陶酔しているために。

知識を助長する現在の社会環境にいながら、知識に引き込まれないようにするには、非常に強い忍耐がいります。

小さな戦いは日常茶飯事のこと。
火は小さいうちに消さないといけない。
喧嘩は早めの仲直りが大事。これが結構難しい。
大きくなったら、もはや消すこともできない。
燃え尽きるのを待つしかない。