「考え方」は衣服のようなもの


桜は桜の花を咲かす。梅は梅の花を咲かす。
桜が梅の花を咲かせたいとは思わない。
しかし、人の場合はそうでない。
その人はその人の花を咲かすことができるのに、他の花にあこがれたりします。
余計なことを教えられたり、余計なことを考えたりすると、自分自身を見失ってしまうことがある。
人は本来、皆、天才なんです。2~3歳の子供を見ていると、特にそう思います。
天才とは、その人固有の花を咲かせることです。賞とは全く無縁です。

それぞれの人の顔形が違うように、個々の人の求めるものも異なってきて当たり前。
私が、あなたを完全に理解するといったことは殆ど不可能です。
普通、話しあえば互いに理解できると思われていますが、どうしても理解できないところが出てくるもの。
それが特性です。違いです。先天性のものなので、どうにもならない。

それに対し、「考え方」というのは、結構変わるので当てにならない。
「衣服」のようなものです。地域や伝統によっても変わるし、時代や置かれた境遇によっても随分変わってくる。後天的なものです。
同じ人でも、先日の考え方と今日と異なっていることもあります。当てになりません。
なのに、着ている「衣服」で言い争いになることが何と多いことでしょう。
裸同士ならうまくいくのだが、衣服を大事にしすぎて、なかなか裸になろうとしないのです。

「人を理解できる」と思うことの方が傲慢です。出来ないことをできると言っているのですから。
人を見れば見るほど、その人を理解することが難しいと分かってきます。それがその人なんだと納得する以外ない。思考には限界がある。
これが多様性です。「認める」ということです。「理解」ではなく。考える以前です。
皆同じ顔や嗜好では面白みもありません。それぞれ違って生まれ、違ったことをするように命令されている。
何であいつはそんなことに興味を持つのかと、さっぱり分からないことがあります。私にとっては、何の面白さも感じないので、不思議で仕方がない。そういうことってよくあります。
世間に惑わされずに自分の好きな道を歩くのが一番。いろんな事情があって回り道を余儀なくされることはありますが、諦めないことが肝心。
諦めなければ、回り道はきっと生きてきます。どう生きるべきかなんて、本や人から学ぶようなことではないんです。深く考えたら歯車が狂ってきます。